ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中年の板碑、phd安.佐田の応皿版』)。第I -21図牛堀町では一基の常陸型板碑が確認されている。現在は横須賀の諏訪神社の境内にあるが、もとは湯殿坂にあったものを後に移転したとも伝えられている。板碑の下部は土中に埋っているが、高さ約一・二メlト月の年紀が刻まれている点でたいへん貴重な資料であり、ル、幅約一メートルの大きな平石である。とくに応永七年(一四OO)八その価値が評しぼり』)。価され、昭和五十年二月に牛堀町指定文化財に加えられている(『郷土う東村にはただ一基秩父(埼玉県)産の緑泥片岩製の武蔵型板碑が、伊佐部の照明院にあり、上部が欠けていて種子は不明であるが、蓮座と花瓶と年紀が刻まれており、北朝年号の文和三年(一三五四)十月三日に造立る。されたもので、常総系板碑がほとんどの中で極めて特色のあるものであさて、常総系板碑の分布状況であるが、南部や東部の低地水田地帯では、上須田の東寿院の252横須賀の応永7年の板碑基の断碑と余津谷の共同墓地に一基を確認できるのみである。}れは二条線を有し、阿弥陀如来の種子(キリlク)を刻んだものである。一方、北部第I -22図や西部の台地およびその周辺では三八基が確認されている(第E12表)。それらの特徴を考察してみられる。他地域と異なる形態的特色として、みると、種子は阿弥陀如来(キリ1ク)が多いが、大日如来(パ1ンク)も一石に二尊の種子を並列に刻んだ双式板碑が十一基あることに注目しておきたい。次に造立年の判明するものが六基あり、市崎の医王寺にある父の菩提のために造立したという目的まで刻まれている文永七年(一二七O)の下総型板碑を最古に、鎌倉期の元徳三年(一三三一)と南北朝期の延文四年(一三五九)造立の板碑が伊佐部の照明院に、同じく延文六年(一三六一)造立の板碑が伊佐部の上の堂墓地にある。室町期では、幸田の薬師堂にある応永二年(一三九五)造立の板碑と明応元年(一四九二)造立で「逆修」の文字が読みとれる板碑が東大沼の東光院にある。また、寛永期造立のいわゆる大たい(『東村金石文集』)。日板碑も四基残されていることも東村の板碑の特色として併記しておき最後に、利根川を挟んで対岸にあたる下総地方の板碑の分布状況をみると、調査の進展が違うだけでなく、板碑の受容層の有無と関係すると