ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
と見えている。}のことから、吉田氏系の大野氏の存在を否定することはできないが、だからといって、大生氏の存在を否定することにはならないと思われる。それにしても、出自については、多くの流布系図が大野氏を採用していることは事実であり、今後とも比較研究(考証)の必要があると恩われる。初代玄幹については、鹿島二郎政幹の次男との説も鎌倉期の大生氏あると「大生氏系譜」にも記されているがその盲《偽を確かめることは現在のところ不可能である。応、石川家幹の八男であろうとしておきたい。次に、本領の地を惣領家より分配され行方郡の大生城(鳳風台城とも称した)を居所として、大生村の領主(地頭)となる。さらに、鹿島社は鹿島六郎が、吉田社は吉田次郎が掌るように、大生社は大生八郎(玄幹)が掌ることになったとも伝えられている。なお、その活動の時期は、鎌倉初期の頃と推定される。二代村幹は、大生小次郎、後に蔵人と称している。また、元久二年(一二O五)、畠山重忠の乱に際しては、鹿島氏や行方氏と共に従軍して力戦したと伝えられている。畠山重忠の乱とは、鎌倉幕府創設以来の重臣であった畠山重忠が、源頼朝の死後、頼朝の妻で尼将軍とも呼ばれた室町・戦国期の潮来地方北条政子の父時政や弟義時に幕府の実権が移っていくことに不満を持ち、北条時政・義時父子と対立し、元久二年六月に叛旗を翻した事件である。三代信幹も蔵人と称している。四代忠幹は、小八郎と称している。また、寛元四年(一二四六)に下総国松岡荘(下妻市周辺)を加賜されたと伝えられている。五代重清は、掃部と称し、その法名は了月と伝えられている。六代道清が五郎、七代定清が平四郎と称している。}の五代から第3章七代の当主の名前が、それ以前と違って「幹」の字ではなく、「清」の字を通字としているのは、どのような理由によるのであろうか。「大生氏系譜」からは手がかりも得られないが、四代忠幹が下総松岡荘を加賜されたことと何等かの関わりがあるのではなかろうかとの推測が考えられる。八代定幹は小次郎と称し、その弟である秀幹は下総国の海上氏を嗣ぎ海上図書頭と称し、その弟の秀元は東氏を嗣ぎ東右衛門大夫と称し、妹は鹿島氏に嫁したと伝えられている。九代元清は右馬助と称している。以上、九代まで「大生氏系譜」は、生没年や事績等の記載を欠いているが、」の世代が鎌倉末期頃に相当するものと思われる。前項で推測したように一つの可能性として、松岡荘松岡荘と忠幹について考察してみよう。松岡荘は、正治元年(一一九九)に五十八歳で没した権大納言藤原経房の日記である『吉記』(「史料大成」)の承安四年(一一七四)三月十四日の条に「同領下総国松岡庄訴申常陸国下津真庄下司広幹乱行事」と見えるのが初見である。鬼怒川中流に位置し、京都の蓮華王院領の荘園で、初見史料には下妻荘の下司(荘官)広幹の乱妨を訴えたことが記されている。また、松岡荘は、豊田氏が開発領主となり、十二世紀後半には成立した荘園と思われる。なお、按察使家(藤原朝方)領の豊田荘と不可分の関係にあったとも考えられている。次に鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の寛元四年(一二四六)十二月二十九日の条に「左馬権頭入道昇蓮与上野入道日阿相論下総国松岡庄田下、久安両郷所務条々内、去文暦元年貢物所済事、依為日阿当給人、司令弁償之由、預所昇蓮訴申之問、日阿拝領者文暦元年十二月十六日也、全不徴納彼年貢物之上者、難弁済之旨、日阿陳之、何日来有其沙汰、今日仰件郷本地頭忠幹、司令致弁之由云々」と見えている。}の史料は、松岡荘の田下・久安両郷の文暦元年(一二三四)分の年貢をめぐって、預所昇蓮(葛西氏)と給人日阿(結城朝光)との争いが生じ、鎌倉幕府の裁許は、255