ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中E当時の郷地頭忠幹に年貢納入を命じた事実を示している。258この地頭忠幹は、従来豊田氏と考えられて来たが、十分な傍証を伴ったものではなかった。とすれば、「大生氏系譜」の前掲記事の典拠が判明するならば、大生小八郎忠幹と推定することもできるのである。またこの両郷が後年鹿島神宮領となるのも偶然の一致なのであろうカ30一五O年後の永徳三年(一三八三)四月十九日の宍戸基宗、梶原貞景打波状(塙不二丸氏所蔵文書『茨城県史料中世編I』)に、「鹿島御神領(中略)下総国豊田庄内他家・久安村等半分事」と見えている。}れは、同年正月二十八日付の寄進状(鹿島神宮文書『茨城県史料中世編I』)により、大生家墓地明らかなように、鎌倉公方足利氏満が、康暦二年(一三八O)の小山義政の乱に際し、天下安全と武運長久のために鹿島神宮に寄進した「高橋三郎跡」の一部で、他家(田下、千代川村)、久安の両村も含まれており、鹿島社大禰宜中臣治親に打渡される。後に嘉慶元年(一三八七)十一月二第I-25図十六日付の中臣治親譲状に見えるように、嫡子中臣宗親に譲渡されていくのである。一方、前述の如く、松岡荘の預所(荘官)が葛西氏であった点に注目するならば、清重、清親、清時、清経、清宗、清貞と「清」の字を通字とする一族であることに気づくのである。砂上の楼閣的推測をあえてするならば、松岡荘を入手した忠幹が、葛西氏より妻を迎え、その聞に生まれた子に母方の通字である「清」の字をつけたと考えることはできないであろうか。もし、そうだとすれば五代から七代までの「幹」から「清」いずれも決定的な史料への変化もうなずけるのである。しかし、を欠いているので、ここでは結論ではなく、新たな展開に向けての問題提起にとどめておくことにしたい。最後に、鬼怒川と小貝川に挟まれた低地に位置する十花、大崎、兵右