ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中E進状案(塙不二丸氏所蔵文書、『茨城県史料大賀地区風景第凹27図島荒次郎幹胤、繁昌彦太郎幹高、大崎260六郎太郎助幹、鳴井彦七入道、麻生太部、島崎五郎、手賀四郎入道、青沼次郎入道、倉河三郎入道、萩原三郎次郎大生の松輪地区風景入道、小幡六郎太郎入道、馬渡入道、矢田部兵衛太郎、宮崎又太郎幹顕、小牧十郎次郎幹勝等々、鹿島・行方地方に土着した常陸大嫁氏一族をはじめとする多くの武士達が、その当時の鹿島神宮の社領であった山田郷、高岡郷、第I-28図大崎郷、四六郷、石神郷、相賀郷等の加納十二か郷、大枝郷の栗俣、岩瀬、本郷の三か村、用重名内の賀村、下生村、二重佐古村、息須賀郷、内小牧村等の社領を押領していたという驚くべき事実をも今日に伝えているのである。中世I』)等によって、弘安五年が終り、室町幕府による東国支配の体制が整備されつつあった前記史料次に確認できるのは、南北朝の争乱(一二八二)十二月二十八日に、蒙古襲来に対する異国降伏の御祈祷料所から一O O年後の永享年間である。料として、鎌倉将軍家(惟康親王)より寄進されて(鹿島神宮文書、『茨城県史蔵文書『茨城県史料永享五年(一四三三)八月廿三日付の「平千代益寄進状」(塙不二丸氏所中世編I』)以来、鹿島神宮の社領であった行方郡の大賀村に対し、大生村の地顕である大生弥太郎入道道円及びその子彦太郎等が、鎌倉幕中世編I』)によって、養父大生修理亮入道道希から譲られた所領の内、大生郷の松輪村にある「在家二字」と「田二町」をる。府の滅亡にともなう世情の混乱を背景としてであろうか、押領をしてい知ることができる。息災延命の目的で、千代益の母(平氏女)が鹿島神宮へ寄進をした事実をさらに、一方、神宮の社家方でも相当に困っている様子を知ることができる。そして}の史料によって、大生氏の本貫の地であり、居館も構へら}れらの史料は、大生氏だけでなく、龍田余一入道幹実、鹿