ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

れたであろう代々の所領として大生郷が位置づけできるという点で、大変貴重な史料と評価することができよう。このように大生氏の動きを直接伝えている史料は、現在のところ三点しか見い出すことができなかった。しかし、「大生氏系譜」には現われ執t、、ωLあるいは記述の字句と符合しない、鎌倉末期から南北朝期にかけて実在した大生弥太郎入道道円と彦太郎の父子、及び室町初期に実在した大生修理亮入道道希と幼名を千代益と称した子か孫であろうと思われる人物等を検出できたことは、今後の大生氏研究の新しい視点を示すものと考える。大生の城館跡茨城県教育委員会が昭和六十年三月にまとめた『重要E(城館跡)』によれば、現在の潮来遺跡調査報告書町域には中世の城館跡と伝えられる遺跡は二件でずれも北部の大生地区に存在している。一つは、潮来町大生字鳳且五八九番地外に所在する鳳風城跡で、鳳鳳室町・戦国期の潮来地方I,より第3章台城とも称されている。潮来町役場から北へ五・五キロメートルはなれた、行方台地が北浦に向かって延びだした舌状台地上に位置している。東西を谷津に挟まれ、北に北浦西岸の低地水田地帯が臨める地形で、標高三0メートル前後の台地にあり、現況は大部分が畑と山林になっており、部分的に土塁や空堀の跡を確認することができる。城主の伝承については、大生八郎玄幹が築城し、その子孫が大生地方を領有していたが、後に島崎城(牛堀町)に本拠を有する島崎氏に攻略され、島崎勢力の出城となり、やがて島崎氏も太田城(常陸太田市)に本拠そしを有する佐竹氏の旗下に属したので佐竹氏の領内に組み込まれる。て、佐竹氏が秋田に移封された段階で廃城となったと伝えられている。L、一方、歴代の大生氏については既述の項を参照していただきたい。廃城後の動向を寸描してみると、大生弾正定守の時、佐竹氏に属したが、鳳鳳城跡略調IJ図第I-29図ー」ト了t .JOm関ヶ原合戦後、佐竹氏の秋田移封により浪人となる。しかし、土井利勝に招かれ、慶長新城跡略測図十九年(一六一四)子定的・定年と共に大坂冬の陣に従軍し、定守は途中の藤枝(静岡県藤枝市)で病没するが、子供達第I-30図は同陣の勲功によって土井家の家臣となり、以後子孫に継承されて行くのである(第Eー剖図「大生氏の子孫たち」を参照)。また、}の経緯は明暦二年(一六五六)建立の石261