ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

流れを汲む鎌倉時代以来の豪族で、室町時代には常陸守護職に補任される等、常陸国の代表的な旧族大名でもある。戦国後期の佐竹氏は、南接する江戸氏を吸収し、さらに小田氏との対立抗争の中で常陸南部に勢力を拡大し、やがて天正期に入ると、小田原城(神奈川県小田原市)を本拠地とし相模、武蔵、下総、常陸と関東地方東部一帯に領国の拡大化を企図する後北条氏と対立することになり、結城氏、宇都宮氏等と結んで対抗する。一方、北上して陸奥に勢力拡大をしていくと、陸奥一国の領国化を企図する伊達氏と対立することになり、相馬氏、芦名氏等と結んで対抗する。}のように佐竹氏は、南北双方に大敵を相手とするのである。しかし天正十年代に入ると、全国統一をめざし、東国に目をむけた豊臣秀吉と、いち早く結びつくなど、東国大名の中では際だった変化をみそして、天正十八年(一五九O)の豊臣秀吉による後北条氏討せている。滅(小田原征伐)の後、豊巨大名の一員となり、佐竹氏の最盛期を迎えるのである。通称を清三郎と言い、初めは佐渡守頼安と名乗っ小貫頼久の人物像ていたが、天正末年頃に大蔵丞頼久と改名してい室町・戦国期の潮来地方る。小貫伊勢守頼俊の子で、佐竹義重・義宣父子の側近として仕え、佐竹家中でも屈指の重臣であった。永禄十二年(一五六九)、河井玄蕃允堅忠と共に越後(新潟県)の上杉謙信(輝虎)のもとへ佐竹義重の使者として赴いた(「上杉家文書」)のを初めとして、甲斐(山梨県)の武田氏、陸奥(福島県)の岩城氏や芦名氏への使者も務めている。また、上杉氏や多賀谷氏から佐竹義重への披露(仲介)第3章を依頼する書状を送られたり、伊達氏や芦名氏へ書状を発給する(「伊達家文書」「秋田藩家蔵文書」)等、佐竹氏の外交面で重要な役割を果たして、・30LA文禄二年(一五九三)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に応じた佐竹氏の軍勢の一員として肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に在陣し、六月十五日には、真崎兵庫助宣宗と同船にて朝鮮へも渡海している(「大和田重清日記」)。文禄四年(一五九五)六月、太閤検地の終了にともない豊臣秀吉から五四万余石の佐竹領の朱印状が与えられる。八月の知行割の実施に際して、和田安房守昭為、人見主膳正藤道と共に、佐竹義宣の三奉行として第皿13表のような多数の宛行状を発給している。また自らも義宣から、第E14表のような久慈、那珂、茨城、行方郡内の蔵入地(直轄地)九00O余石を預け置かれている。慶長七年こ六O二)佐竹氏の秋田国替により、義宣に従って秋田に移り、翌年、出羽(秋田県)の土崎湊で没し、法名を香山と称したのである(『戦国大名家臣団事典東国編』)。267