ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世正友、喜右衛門正栄兄弟の代に潮来に土着し、領の開拓に当るのである(「関戸家由緒書」等)。中やがて町年寄として新島この村田家や関戸家のように、下総の国分氏の一族であったが、戦国E伝承を有する旧家をあげることができる。時代の終駕と共に帰農し、近世の村の開拓者として潮来地方に土着した第三に、下総の出身ではなく、常陸国の信太郡江戸崎城(江戸崎町)に本拠を有した土岐原氏の末育との伝承を有する石田家がある。『東国闘でもその名を知られている土岐原氏である。戦見聞私記』を初め、南常陸の戦国争乱について記述した多くの戦記物一方、石田氏については、智福院(桜川村古渡)の熊野権現棟札写(「続常陸迫文八」)に、永様十一年(一五六八)五月、東条庄峯熊野権現の社殿再建の時、当社大檀那である270土岐大膳大夫治英の役人として石田播磨守成信と嫡子与太郎の名が見える。天正十五年(一五八七)峯熊野三社大権現の社殿再建の時、当社大檀那である土岐源次郎治網の役人として石田与太郎の名が見えている。また、東村上之島の共同墓地には石田駿河守の墓があり、墓石には、「元(『東村史編纂資料和二丙辰年(一六二ハ)十月、当村起立、静山道韻居士」と刻まれている東村金石文集』)。戦国時代の終駕により、上の島に土その開拓に当ったとの伝承を有し、寛永二年(一六二五〉七月付の着し、村田家の墓所第凹-35図関戸家の墓所第I-36図石田家の墓所第1 -37図