ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第3章その内容は、近世の妙光寺檀家の戒名や没年月日を記したものであるての誇りと自信を感じられるものである。室町・戦国期の潮来地方九月経味れ州如地がての意師保い長珠、存る崎日肥さ。県、之れ多大作前た少村之州のの出」大でい身と郁あたのの之ろみ経墨産うは地書、。あ師銘そ斉るで(の藤があ第裏善、る班板兵両斉おに衛端藤図は尉が秀)、秀板実が「実製とあ宿(のいり元表う、花辻紙人作押郁で物成)石あっのを、た文二井、依た政己清職頼め人さ第卯兵にとれ七衛中した尉、第I -5表村」の檀家中が施主となり新調された過去帳が残さ妙光寺の過去帳月、当山三十四世智音院日容の代に「延方村、大須妙光寺には、序文によれば、文政二年(一八一九)七近世初期の妙光寺檀家入状況も明らかになるものと期待される。後、町内旧家の史料調査が進展すれば、事例も増加し、一層諸勢力の流年月日村名氏名戒名相当する等、潮来の地理的位置関係に起因しているものと思われる。今それは、霞ヶ浦と北浦とを結ぶ中間点であり、下総国と常陸国との墳に戦国期の潮来をとりまく諸勢力の影が見え隠れしていることが判明する。以上、近世の潮来をリードした町年寄格の数軒を例に見ただけでも、ら新右衛門に改称している(「石田家系図」)。代田日世も丹後守を称し慶長十四年三六O九)に没し三、代昌豊が丹後か手賀村(玉造町)の鳥名木四郎右衛門の妻となったことを伝えており、二る、石田丹後守日日長を初代とする潮来の石田新右衛門家は、昌長の女がむすめ-』)、土着前後の状況を知ることができる。さて駿河守の一族と思われ殿」に宛てた新島領開発許可状の写しが残されており(海『上町史史料編十九年十二月八日付の吉田佐太郎、粟飯原左衛門連名で「新島、駿河兵衛、同伝右衛門」と見えている。なお佐原市の伊能家文書には、天正土岐氏旧巨人数注文(阿見町飯倉の石引家文書)にも、「上ノ島村、石田清慶長19.11. 1延方柏崎主水広宣院宗智日希寛永8. 9. 13茂木箕輪吉兵衛箕雲院輪洞日涼寛永10. 7. 3加藤須治左衛門委妙浄寛永15. 7. 9潮田太郎左衛門義天了雲寛永19. 9. 2永山善左衛門妙応寛永20.1. 4延方与右衛門蓮久慶安1. 3. 7板久文右衛門子蓮久鹿安1. 6. 8須賀三十郎妻貞操鹿安1.11. 6茂木喜兵衛善教日産安2. 4. 5島崎長左衛門常連E霊安5. 8.11貝塚オカメ妙空寛文1. 8. 10板久治郎右衛門委妙乾寛文10.11. 4延方柏崎勘右衛門竜華院懸信日j享文政2年の「妙光寺過去帳Jより作成第I-38図妙光寺過去帳271