ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

矢幡土子家大平内膳窪谷四方土子伊賀館田兵庫今泉将監大野与市平山雅楽之正柏崎仁二二コ織部少左藤豊後寺田与兵衛大川七郎山野治兵衛鈴木主水萩原半兵衛米河佐渡小貰大蔵原田徳兵衛原弥兵衛0印は同名を示す唐(柄)崎(現在地不詳)において戦った潮来地方の人々を知り得るというしたならば、島崎左衛門の軍勢催促に応じて小田氏の軍勢の一員としてこの史料がもし三三年前の合戦と、何等かの理由で混同されたものとれている。第I-6表古高柏崎家O窪谷四方之助土子伊賀守鶴田伊豆守大生与市平山藤蔵柏崎六兵衛佐藤豊後守O大川七郎入道山野仁兵衛鈴木主水助O米河佐渡守小貫大蔵寺原目徳大夫Oした玉造氏と合戦に及んだもので、永禄二年(一五五九)の事件と推定さ(治広、)武田氏(通信)等を味方に加えて、手賀氏、鳥名等木を氏味方にの小高氏が小田氏に支援を求め、下河辺氏、麻生氏、島崎氏、山田氏配分状の人名一覧争いに端を発し、その仲裁に入った府中(石岡市)大援氏の裁定にも不満矢幡土子家古高柏崎家瀬能茂兵衛茂木半助石神弥治右衛門新橋道関根本与四郎盛伊左衛門榊原喜左衛門宮本弥治右衛門人見九兵衛小浦勘助山口三太郎小川又五郎片岡久蔵矢口新五郎菅谷半平O茂木半介榊原弥次衛門新橋道斉OOO宮本弥次衛門O小幡勘助江口三太郎大川又五郎片岡文蔵O藤谷半助佐藤伝内山本玄蕃丞土子美濃守大平主馬O太平主馬助行方郡内を二分した唐(柄)崎合戦は、玉造氏と小高氏の所領をめぐるみる必要もあるのではなかろうか。は、同様の内容を有する史料が複数の旧家に残されている理由を考えて後世の人々に語り伝えようとした史料作成者の意図を汲みとりあ、るいる。しかし、史料の乏しい戦国期の潮来地方を考察してみようとする、時(一五九二)正月の年記を有する点など多くの疑問を残しているものであ勢催促を内容とするにもかかわらず、文禄元年唐崎合戦と配分状の文献史料に見られない唐(柄)崎合戦に対する軍八年(一六三一)に没した「箕雲院輪洞日涼」という戒名を与えられた茂}の史料は中世書文の様式から逸脱する点、ゃ他した「広宣院宗智日希」という戒名を与えられた延方の柏崎主水や寛永われる。今後、追跡調査の進展次第で、その実否も究明可能であろう。この表から推測されることは、少なくとも慶長十九年(一六一四)に没開発の中心となった土着武士あるいは草切百姓の人々であったものと思になる。貝塚のオカメについては名字が不明であるが、いずれもそれぞれの村の二年)までの年号の判明する戒名を抽出してみると、第E15表のよう喜兵衛、島崎の長左衛門、板久の文右衛門、治郎右衛門、須賀の三十郎、Eここでは、とりあえず中世の息吹を残している寛文期(一六六1七一また、加藤須の治左衛門、永山の善左衛門、延方の与右衛門、茂木の中にとっても貴重な情報を包含している。と思われる。連なる常陸の日蓮宗史研究にとって、さらに近世初期の潮来地方史研究名に名字が記されていることから、中世に遡及可能な士分の家系である世ことは勿論であるが、日蓮宗妙光寺の歴代及び日蓮の弟子日門の法系に木の箕輪吉兵衛の二名については、院号で七文字の戒名であること、俗272