ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世員外仁等押領之条、神領顕倒之基也、然則返給之、欲全神領、性次高桟敷等下地、良親累代別相伝之条、御下文等明鏡也、而世谷兵庫亮則宗中押領彼下地等内之条、神事退転之瑞相也、然早任代代御下文被打渡之、欲全御神領等御祈祷失、活者早任代ヒ政所御下文以下証文道理、良親子ヒ孫ヒ可令進退領掌彼神領等之状、所仰如件、神宮等宜承知、勿違失、皿故下文保二年十一月(日為宗カ)別当勘解由次官藤原朝臣(花押)案生中原(花押)大従左衛少尉安倍(花押)中世編I』所収〕鹿嶋神宮大綱宜中臣良親の訴えに対する関自前左大臣家(二条道平)からの成敗の旨を記した政所下文である。大禰宜中臣良親の領掌する神領中の内小牧村・加納・大枝郷・用重名・南三昧院・塙寺・立用神田・高桟敷に関して、大禰宜中臣氏は下地の支配をめぐって、地頭や地頭代そして在地諸勢力との押暴に対抗し、解状を摂家二条家政所へ提出している。これらの内加納十ニカ郷に闘し、大綱宜中臣良殺に大生郷における慣例に基づく成敗を要望しているのが分かる。二条家政所は大禰宜中臣良親の意向に対し、その判決を下している。〔鹿島神宮所蔵文書『茨城県史料散位某他三名連署奉書(中毘)常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光井和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿嶋社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之問、依被急遷宮、任注申之旨、加催促、可造畢、於理非者、追可有其沙汰之由、難被仰下、遷宮子今遅引、市当郷者地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、O「木」ノ字ニ曾改メ、裏花押ヲ書ク云木田見・大王・藤井・田子共等之例柄罵之由、能親所申有其謂、O「愛」ノ字-一番改メ、裏花押ヲ書ク奉行人成敗難区、下地平均課役可随分限之条、云度々御教書、278愛国相叶理致、然者地頭・給主共可造進之旨、加催促、急速可被終其功之状、依仰執達如件正中二年六月六日散位(花押)前長門介(花押)左衛門尉(花押)前加賀守(花押)山河判官入道殿(貞宗)小田常陸太郎左衛門尉殿大瀬次郎左衛門尉殿下郷掃部丞殿『茨城県史料〔鹿島神宮所蔵文書中世編I』所収〕鹿島神宮の遷宮に関するもので、大枝郷給主中臣能親は、地頭野本四郎左衛門尉貞光と和泉三郎左衛門顕助と、鹿島社不開御殿仁慈門造営をめぐって相論となった。丹塗格子以外は全て給主中臣氏側の負担と主張する地頭側に対して、給主中臣能親側は大枝郷が嘉禎年中より地頭・給主の折半の地と称し、地頭と給主両側で造営負担すぺきと反論していた。中臣能親はその例として、大王・木田見・藤井・回子共などの勤仕例を取りあげているが、大王は大生の事である。長勝寺鐘銘(第一区)常陸国海雲山長勝禅寺鐘銘弁序