ブックタイトル潮来町史

ページ
295/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている295ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

第一章近世初期の潮来地方第一節水戸藩の成立と統治天正十八年(一五九O )七月、相模国小田原城を本拠小田原の戦と家康の知行割りとして、伊豆、相模、武蔵、上野、下総の大半、下野、上総の一部にその勢力を伸張させていた北条氏(後北条氏)は、天下統一を目指す豊臣秀吉によって滅ほされた。小田原の戦については中世編に詳しいが、」の戦いの歴史的意義については次のように評価されている。つまり、武家政権である鎌倉幕府の成立にはじまり、中世後期には西国とは異なる、独自な公権力体制を構築していた「東国国家」にあって、北条氏はその正当な後継者を自認しており、豊臣政権とは異なる天下構想を保持していた。}の北条氏を打倒する近世初期の潮来地方となしには、豊臣全国政権の誕生はなかったと(佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点」『歴史学研究』別冊、斉藤司「中近世移行期の関東について」『地方史研究』二O三号)、換言するならば、小田原の戦以降の「東国日関東」は、西国政権から全国統一政権へと発展した豊臣政権下での「一地域」として、再編されることになったのである。第l章小田原の戦後、秀吉は参戦した諸将に論功行賞をおこなっている。徳川家康への関東移封の命もその一環であった。徳川家康の祖は、三河国加茂郡松平郷に興り徐々にその勢力を伸張させ、家康の代には三河、遠江、駿河、甲斐、南信濃を領有する大名へと成長していた。この五か国領有段階において家康は、徳川・松平一門と家臣団の創出と編成、および天正十七、八年の五か国総検地の実施などに力を注ぎ、領国内の軍事、経済の両面において、秀吉に迫る強固な権力基盤を築きあげていた。}の頃までに徳川氏は戦国大名権力から豊臣大名へ、そして近世大名権力へと脱皮していたといわれる(所理喜夫『徳川将軍権力の基礎構造』)。関東において家康に新たに与えられた所領は、北条氏の旧領を中心に伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の六か国、計二四O万石余であった。また、このほかにも、在京賄料として近江、伊勢、駿河、遠江圏内で、一O万石の地が宛行われている。旧領五か国時代より一OO万石の加増であった。家康にとって、関東新領国において早急になすべき課題は、蔵入地の確保と家臣団への知行割であった。徳川家臣団の関東への入国は、天正十九年九月までにはほぼ完了したといわれ、}れと平行して家康は領国内に検地を施行するとともに、重臣榊原康政を総奉行として、青山忠成、伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正らに命じて家臣団への知行割りをおこなっている。家康の新領国下での知行割りをみると、まず本拠である江戸周辺に蔵283