ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世入地を集中させ、江戸から一O里ないし二O里の地、つまり江戸からせいぜい「一夜泊まりの地」に中・小家臣を配置し、さらにその周辺には、近北条氏の支域制を利用して、大身の家臣を配置するという方法がとられIVている(北島正元『江戸幕府の権力構造』)。家康が関東に入国した当初は、常陸の太田に佐竹義重・義宣父子、江戸崎に芦名義広、安房の館山に里見義広、下野の宇都宮に字都宮国綱、佐野に佐野了伯、喜連川に足利国朝、鳥山に成田氏長、那須に那須資晴・資景および那須衆がおり、さらに越後に上杉景勝、甲斐に豊臣秀勝、信濃に仙石秀久、真田昌幸がひかえ、家康の新領国と境を接していた。これらは新たに秀吉に臣従した目族大名、豪族であり、その限りで家康と対等な地位にあった。とりわけ常陸国で大きな勢力をほこる佐竹氏の存在は、家康に脅威を与えるものであった。関東新領国での家康の知行割りの方針は、こうした諸勢力の存在を踏まえてのものであった。豊臣秀吉による常総地方への知行割りも、天正十小田原の戦後の佐竹氏の動向と移封八年七月にはほぼ決定したといわれる。家康が江戸へ入城した八月一日には、佐竹義宣に対し秀吉から、次のような朱印状が与えられている(「秋田藩家蔵文書」、『茨城県史近世編』より引用)。常陸固ならびに下野国の内、所々当知行分弐拾壱万六千七百拾八貫分の事、目録別紙を相い添え、扶助せしめおわんぬ、然る上は義重・義宣覚悟に任せ、全く領地せしむべきものなり天正十八年八月期日(朱印)(秀吉)佐竹常陸助殿秀吉によって一二万六七OO貰文余の土地が、佐竹義重・義宣父子に安堵されたことが知られる。右は戦国期固有の買高で所領の規模が表示されているため、また目録が現存しないため、正確な所領の範囲を確定284することはできないが、常陸と下野のうち、まだ支配していない、常陸中部から南部地方も含まれていたと予想されている(『茨城県史近世編』)。佐竹氏の勢力は、全国統一間近な豊臣政権によって支えられたものであった。このことが小田原の戦に参陣しなかった常総の諸将を攻め、その領地を奪い取る上での名目となったことであろう。佐竹氏による行方地方の支配は中世編に詳しいが、後節への前提として必要な範囲で繰り返しておきたい。まず、佐竹氏の軍勢は江戸氏の本拠である水戸城を急襲し、江戸重通を滅ぼした。天正十八年十二月のことであった。水戸城を落とした佐竹軍は、その勢いで一三館八か所といわれた同氏の根城をすべて手中にし、ついで大嫁清幹の府中城(石岡)を落城させている。さらに常陸大援氏は、鹿島、行方三十三館といわれる一族を分出していたが、佐竹氏はこれら三十三館の領主たちを、彼らへの知行割りを名目に太田城に呼び寄せ、毒殺したといわれている。謀殺された領主とは、「鹿島殿父子カミ嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀兄弟、武田殿、巳上十六人」であったという(「和光院過去帳」)。以上の過程を経て、佐竹氏はほぼ常陸一国を統一したとみられるが、おそらくは潮来地域もこの時期に、佐竹氏の勢力下におかれることになったのであろう。旧利根川をはさんで領国の墳を接する徳川氏にとって、佐竹氏こそが最大の脅威となったことが、}れによって容易に想像されるのである。