ブックタイトル潮来町史

ページ
297/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている297ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

家康は関東入国直後から検地を施行しはじめ、家臣団佐竹氏と家康の配置に力をそそいだ。旧利根川を隔てて、潮来をはじめとする佐竹氏領と境を接する、下総国佐原、小見川といった地域にも天正十九年に検地が施行され、それに基づいて有力家臣が配置されている。}こでは小見川に配置された松平家忠を事例として、家康による対佐竹民政策の一買をみておきたい。松平家忠が小見川城主となったのは、文禄三年(一五九四)十二月のことであった。家忠は弘治元年(一五五五)三河国深溝に生まれ(深溝松平氏H徳川氏一族)、徳川家康に従って小牧・長久手の戦ゃ、小田原の戦などを歴戦した武将である。家康の関東移封によって旧領深溝を離れ、武蔵国忍城主(一万石)となり、文禄元年には下総上代一万石に転じている。家忠は上代に転じた二年後に小見川に入封するのであるが、入封について『覧政重修諸家譜』には、「このとし(文禄三年)上代を転じて、下総香取、上総長柄、武射、山辺、望陀五郡及び同国吉倉平川両郷のうちにうつされ、香取郡小美川城を賜ふ」と記されている。家康による上級家臣団への知行割りは、旧領国時代から支城駐屯制をとっており、関東にも適用されたという(北島正元『江戸幕府の権力構造』)。家忠の下総上代←小見川への入封も、}うした政策の一環日佐竹氏牽制のための配置近世初期の潮来地方と捉えられる。ところで松平家忠の残した『家忠日記』(天正十九年から文禄三年の間の一九』所収)にはつぎのような記載がみられる。日記、『増補続史料大成(文禄元・一二)十日、辛未、小見川より吉田佐太郎為見舞越候、大豆十俵もたせ第1章候(文禄元・八)廿三日、庚成、郷々吉田佐太郎未進-一使をふ候(文禄元・九)廿四日、辛巴、小見川佐太郎所へ越候、桜井よりさけ二本こし候(文禄元・九)廿八日、乙圏、郷々未進方、吉田佐太郎催促-一付而、同九七、大原修理江戸へ越候(文禄二・八)十八日、甲成、小見川吉田佐太郎越候而会下一一法門候、馬場のはしかけさせ候(文禄二・八)一目、突未、会下へ参候、田部上代さほうちせんと申付候へ共、百姓共佳言にて止候(文禄二・八)四日、丙成、仁良さほわひ事ニて、去年之成ケ外百俵納所候ハん由候(文禄二・十一)十七日、丁酉、(略)平右衛門越候、江戸吉田佐太郎所より去年かり候永銭-一折紙こし候ここに登場する吉田佐太郎とは、幕府の代官頭大久保長安配下の代官であり、小見川周辺を管掌していた。香取郡内の「天正十九年検地帳」には、検地奉行として佐太郎の名前が散見する。さて、右の日記は、吉田佐太郎が小見川を中心に、代官としての職務を遂行していることをしめしている。未進年貢の督促などがそれを物語るが、文禄元年(一五九二)九月二十八日の記事のように、家忠の所領をもA白んだ、つまり家忠の所領へも、代官としての職権を行使している形跡が、窺われるのである。また香取郡上代にあった(小見川への入封は文禄三年)家忠との聞の頻繁な往来も興味深い。吉田佐太郎は、文禄二年十一月十七日の記事にみえるように江戸に住し、小見川との聞を往復していたことがわかる。江戸と下総の現状に通じており、家忠との間の情報交換が想定される。ところで、文禄二年八月一目、同四日の記事は、家忠が領内の上代、田部、仁良村(千葉県香取郡山田町内)へ、検地(さほうちH竿打ち)を施行しようとしたことを述ぺている。このこと自体、家忠の行使する領主285