ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世いずれも農民の抵抗(「百姓共住言」)権の一端を窺わせるものであるがによって撤回している。それは「去年之成ケ外百俵納所候ハん由候」(去近年の年貢より一OO俵多く納める)という、農民との妥協によるものでIVあった。すなわち、家忠が領内に施行しようとした検地は、年貢の増徴を主たる関心とするものであったと促えられる。それゆえに年貢の上乗せによって、農民との妥協が成立したのである。とするならば、領内検地において、主要な関心が向けられるべき土地、農民、内高の把握という点において、消極的なものであったといえる。領主としての領内経営の脆弱性をしめしているといえよう。このような脆弱性は、当該時期の対佐竹氏をはじめとする、臨戦体制的状況下において大身の家臣団配置が、軍事を当面の、かつ最大の任務としておこなわれたことによるのであろう。そしてこのような譜代家臣囲内力のおよばない領内経営を側面から補足したのが、吉田佐太郎をはじめとする代官であったと捉えられる。右のような配置は、}の時期の徳川氏の関東領国には一般的にみられたものであったとおもわれるが、松平家忠や吉田佐太郎に限定してみるならば、それはまさに利根川を隔てて存在する、佐竹氏を意識した軍事的対応であった、と捉えられるのである。慶長三年(一五九八)八月十八日、天下人豊臣秀吉は伏見関ヶ原の戦と佐竹氏城において、波濁万丈の生涯に幕をおろした。享年六二歳であった。秀吉の没後の二年間は、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、字喜多秀家、小早川隆景)が最高政務を合議し、五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)が実務を担当するという、政治の運営がおこなわれていた。しかし、覇権をめぐる対立は避けられるものではなかった。五大老の筆頭たる地位を築きあげていた家康は、秀吉の存命中から顕286在化していた内部対立H武将派(福島正則、加藤清正など)と、吏僚派(石田三成、増田長盛など)の対立を利用して武将派の大名をその配下にいっぽう石田三成は、前田利家に接近して豊臣政権の安定化を画策したといわれ、両者の対立は前田利家の死去によって表面化し置いている。た。常陸一国をほぼ統一した佐竹義重・義宣父子の対応は、どのようなものであったのだろうか。慶長四年一二月に前田利家は没したが、その直後に武将派の大名たちは、吏僚派の中心的存在であった石田三成を、急襲しようとした事件が発生した。この時、大坂城にいた一二成を自らの駕龍に乗せて救出したのが佐竹義宣であった。また家康の命をうけて三成を大津まで送ったのが結城秀康であったという(『茨城県史近世編』)。ちなみに文禄三年(一五九四)に、秀吉は常陸国に太閤検地を施行しているが、}の検地の総奉行をつとめたのが石田三成であった。こうしたこともあって、三成と佐竹氏の関係は親密なものであったのであろう。さて、武将派を配下に置いた家康は、着実に政界の主導権を掌握しつつあった。家康は石田三成らと通じていた、会津の上杉景勝(小早川隆景の死後、五大老のひとりとなった)の軍事拡張、諸城修築などを名目に征討の兵を挙げ、さかんに反徳川氏勢力を挑発した。慶長五年の関ヶ原の戦はこうして準備された。慶長五年七月、家康は佐竹義宣に対し忠誠をもとめているが、義宣は敵対心のないことは誓いながらも、いっぽうでは上杉景勝と密約を結び、石田三成とも連絡をとっていたといわれる。ただ、義宣は結局、関ヶ原の戦においては行動を起こさず、常陸圏内から出ることはなかった(『茨城県史近世編』)。