ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第l章近世初期の潮来地方慶長6-8年における所領配置城地領主所領高備考万石改易下委多賀谷重経6.0改易山川山川朝信2.0改易転封結城結城秀康10.1越前北の庄67.0へ水戸佐竹義宣54.58出羽秋田20.0へ水戸武田信吉15.0下総佐倉4.0より笠間松平(松井)康重3.0武蔵騎西2.0より土浦松平(藤井)信一3.5下総布川0.5より下館水谷勝俊3.2 2.5より.移動なし入牛久山口重政1.0上総の内0.5より宍戸秋田実季5.0出羽秋田5.0より松岡戸沢政盛4.0出羽角館4.0より府中六郷政乗1.0出羽六郷0.5より志筑本堂茂親0.85出羽本堂0.85より封武田仁賀保拳誠0.5出羽仁賀保0.5より小張松下重綱1.6遠江久野1.6より江戸崎青山忠俊0.5下総の内より守谷土岐定義1.0移動なし古河松下(戸田)康長2.0上野白井2.0より『茨城県史近世編』所収の表より作成十一月に、水戸城へ封じられたのが家康の五子である武田信吉であった。287ふたたび第W11表をみたい。佐竹氏移封直後の慶長七年三六O二)第IV-1表の経過をみておきたい。水戸藩の成立であった。」こではまず、水戸藩の成立水戸藩の成立処理は常総の様子を一変させた。その象徴的なものが佐竹氏の秋田移封をはじめとする、関ヶ原の戦の戦後むことになったのである(『茨城県史近世編』)。たという。常陸に残された家臣の多くは帰農し、農民としての道をあゆ秋田転住にさいして、召し連れることができた家臣は僅かなものであっ佐竹義宣は、慶長七年七月二十七日に正式に秋田移封の命をうけるが、ているのである。がれたとはいえ約三四万石の減封と、秋田移封の命をうける背景となっとったことが、家康に不愉快であったことは想像されよう。改易をまぬこのことを家康が承知していたかどうかは不明であるが、暖昧な立場を会津の上杉氏や石田三成との聞に、密約をかわしていた形跡があった。九三家で、その石高の総計は五O七万石に達している。また減封処分をたように、佐竹氏は関ヶ原の戦において家康への忠誠は寄ったものの、と配置替えよ転封の断行であった。関ヶ原の戦直後に改易された大名はとしであった佐竹氏も、減封の上での転封処分をうけている。先にのぺった。つまり、大名家の取り潰しと、領地の没収H改易と、所領の減封さて常陸一国をほぼ統一し、家康の関東領国経営にとって最大の脅威れている。いっぽう西軍にくみした大名への対応には、厳しいものがあ明らかであろう。らわれであり、また東軍方についた諸大名への増封も、盛んにおこなわ佐竹氏と行動をともにした。)のことが改易処分の理由であったことは東領国と旧領三河をはじめとする、東海諸地域に配置されたのもそのあは、与力大名として佐竹氏の軍事指揮下にあり、関ヶ原の戦においても徳川一門と三河以来の譜代上層家臣が一斉に大名に取り立てられ、関転封、入封の様子をしめしたものである。表にみえる下妻城主多賀谷氏家康が最初におこなったのは、関ヶ原の戦における論功行賞であった。ろうか。第Wl表は慶長六年から八年における、常総諸大名の改易、西軍にくみした小西行長らは処刑され、)こに徳川氏の覇権が確立した。家康による常総諸大名への戦後処理は、どのようなものであったのだ関ヶ原の戦は、家康の率いる東軍の勝利におわり、石田三成をはじめうけた大名は四家で、没収石高総計は二二二万石であったという。