ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世その所領高は一五万石であったが、それは水戸城を中心に那珂、久慈、茨城郡と、鹿島、行方郡の一部において与えられたものであったという。近おそらくこの時点での潮来地方は、徳川家康の直轄領としであったものWとおもわれる。信吉の母(於都摩の方)は、武田信玄の一族穴山氏の養女であったが、この縁もあって信吉は武田の名跡をついでいた。しかし信吉は病身で、水戸城入封の翌年九月には二O歳の若さで没している。信吉にかわって、水戸城主となったのは、家康一O子でわずか二歳の長福丸(のちの紀州藩主徳川頼宣)であった。長福丸に当初あたえられた所領は二O万石であったが、慶長九年には五万石が加増され計二五万石となっている。だこの長福丸による水戸城支配も六年間でおわり、慶長十四年には一ニ河、遠江、駿河国のうち、五O万石の地に配置替えとなる。ちなみに、幼少であった長福丸による水戸領支配は、家康の監督下に国政は家老三浦為晴、朝比奈宗左衛門、天野孫左衛門が担当し、財政事務は信吉の家臣であった麓沢信重が執行したといわれる。またこうした附家老の補佐をうけながらの藩政は、続く頼房の時代の前半までみられたという。まり藩政H中山備前守、農政日伊奈忠次、財政n麗沢信重による、藩の運営がそれである(『茨城県史近世編』)。さて水戸藩の実質的な藩祖となったのが、家康の一一子である徳川頼房(鶴千代)であり、下妻五万石から二O万石の加増川二五万石での入封であった。以降この頼房の系統が水戸藩主に就任していくことになる。次に歴代の藩主在任期間および拝領高に限って記しておきたい。頼房H慶長十四年三六O九)1寛文元年(一六六一)、拝領高H二五万石(のち二八万石)2光闇H寛文元年i元禄三年(一六九O)、拝領高u二八万石3綱僚u元禄三年1享保三年(一七一八)、拝領高川二八万石(の288ち三五万石)4宗桑H享保三年i享保十五年(一七三O)拝領高H三五万石5宗翰日享保十五年i明和三年(一七六六)、拝領高川三五万石6治保H明和三年i文化二年(一八O五)、拝領高H三五万石治紀H文化二年i文化十三年(一八二ハ)、拝領高H三五万石斉修日文化十三年1文政十二年(一八二九)、拝領高u三五万石斉昭H文政十二年1弘化元年(一八四四)、拝領高H三五万石慶篤H弘化元年1明治元年(一八六八)、拝領高H三五万石78910た1昭武川明治元年i明治四年(一八七一H廃藩置県)、拝領高H三五万石ところで慶長八年三六O三)、徳川家康は征夷大将軍に補任され、江戸に幕府が聞かれた。家康は二年後には将軍職を三男秀忠に譲り、徳川家の天下人としての地位を全国にしめしている。こうしてみると水戸藩は、全国政権の所在地である江戸(関東)を東北諸藩からの防衛と、幕政つの補佐役を担うことを目的として成立したもの、と捉えることができよB「ノ。ふたたび第Wl表をみたい。慶長六年から同八年における常総地方への所領構成は、多数の外様大名領を含むものであった。つまり秋田実季、戸沢政盛、六郷政乗、本堂茂親、仁賀保拳誠、水谷勝俊、松下重綱の存在がそれである。また慶長九年には、摂津高槻より新庄直頼が麻生藩三万石余に、滝川勝利が片野二万石、同十五年には丹羽長重が古渡一万石などに封地を宛行われていた。しかしながら、こうした外様大名も元和期(一六一五i一一三)と寛永期(一六二四i四三)には、麻生藩の新庄氏や谷田部藩の細川氏らを除いて、すぺてこの地を去ることになる(麻