ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

生藩日新庄氏に関しては次節に詳しい)。以降の常総地域には幕府直轄領、譜代藩領、旗本領が集中的に配置され、広い意味で徳川氏の関東領国としての性格を強めていくことになったのである(『茨城県史近世編』)。現在の潮来町域には幕末期に一二か村が存在した(新水戸藩領の村むらの成立田村を含む)。その所領構成をしめしたものが第W12表である。表中の築地、辻、潮来、大洲、延方、徳島新田、古高の七か村が、水戸藩領で、二重谷新田(後に二重谷村)は幕府領であった。また大生、大賀、釜谷、水原の四か村は、麻生藩領として新庄氏による支配をうけた村むらであった。その支配は明治四年の廃藩置県まで変化なく続く。ただし後に述べるように、若干の幕府直轄領と鹿島神宮領を含んでいる。)れらの村むらは右の村むらがいつの時点で、水戸藩領となったのかを正確に知ることはできないが、おそらくは頼房による支配の開始川実質的な水戸藩の成立の時点で、藩領として組み込まれたものとみてよいであろう。なお大生、大賀、釜谷、水原村も慶長九年の新庄直頼入封時点で、麻生藩領に組み込まれたものとおもわれる。ところで、水戸藩をはじめとする封建領主の財政は、農村から徴収する年貢に依拠していたから、農村をいかに支配するかに、それぞれの領近世初期の潮来地方主の最大の関心がむけられた。土地と農民を把握するうえで、式UUつ'p」d血U基本的な政策となったのが検地の施行であった。第W12表に示した各村の村高は、基本的には検地によって打ち出されたものであった。村高に年貢が賦課されたのである。水戸藩農政の画期となったのは、寛永十八年(一六四一)におこなわれ第l章た全領検地の施行であった(それ以前にも常総地方では検地は施行されている)。おそらくは潮来地域の水戸藩領村むらへも検地は施行され、『元禄郷帳』にみられる村高に引き継がれたたものとおもわれる。しかし検地については、大洲村分の検地帳の一部が残されているのみで、詳細を知ることはできない。ただ、麻生藩がおこなった寛永八年「大賀村御水帳」、および慶長十一年三六O六)「鹿島神領延方村大生村水帳」が現存しており、検地の在りようについては間接的に知ることができる。鹿島神宮領検地については次節でふれたい。ふたたび第Wl2表をみたい。寛永十二年の段階で水戸藩領としてみられるのは、築地、辻、潮来、延方村の四か村のみであった。)れが『元禄郷帳』の段階H元禄十年(一六九七)には、「古高村」「潮来村之内大須新田村」「延方村之内徳島新田村」「二重谷新田」として新たに帳簿上に表記されるようになるのである。また天保五年(一八三四)に成立した『天保郷帳』にも、同様な記載がみられる。}れに対し明治初年に成立した『旧高旧領取調帳』には、大須村を除く新田村および古高村の記載はなくなり、これらの村高が、それぞれ潮来、延方村の村高に組み込まれていることがわかる。なお二重谷新田の村高五回二石余は、潮来村へ組み込まれているが、その支配は幕府代官によったことが、表によってあきらかとなろう。つまり潮来村は、水戸藩と幕府による支配をうけていたことになる。こうした支配を相給支配とよび、そうした村を相給村落などという。ところで、一般に『元禄郷帳』の村高は幕府からの拝領高をあらわしのており、改高は加算されず、新田村が新たに成立している場合に限って、書き上げが認められたとされる。}れに対して『天保郷帳』は、新田高と改高つまり有高を書き上げさせたものであるいわれている(藤田覚「国高と石高|天保郷帳の性格|」『千葉史学』四号)。この指摘によるならば、『元禄郷帳』『天保郷帳』の両時点でこれら「新田村」は「一か村」と289