ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 303/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている303ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている303ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
料』八巻)。右の郡奉行とは水戸藩の農民支配機構の頂点に立つもので、その命令は郡奉行←大山守←村役人(庄屋・組頭)←一般農民へと下達された。こうした郡奉行制は、時代によってその職務に変化をみせるが、ひいては民政全般を担当し基本的には領内への年貢の割り付けと徴収、たもので、水戸藩農政の特徴となる(他藩にもみられるが)。水戸藩の郡制(行方郡といった古代律令制以来の郡制とは別)および郡奉行の人員は、幾度かの増減がみられる。また郡の名称も変化する。まり寛永期三六二四i四三)の水戸藩領内は、松岡・南・保の三郡に分割され、それぞれ野沢太郎左衛門、跡部太郎兵衛、川村覚助の郡奉行によって支配されていた。また、覧文十二年(一六七二)の記録「御知行割郷帳」では、南分一O四か村、那岡(中)分二Oか村、北分一三六か村に区分されていた(宮津正純「水戸藩の郡制と郡奉行たち」『遡源東海』三号)。これ以降も郡制、奉行の人員は増減を繰り返し、延宝五年(一六七七)には四郡(太田、松岡、武茂、南)、元禄十四年(一七O一)には五郡(松岡、武茂、南、野々上、保内)、宝暦年中(一七五一i六一二)には四郡(南、太田、松岡、武茂)。また寛政期(一七八九i一八OO)におこなわれた郡制改革によって、南郡から野合組(のちに紅葉組〈郡〉と改称)を、武茂郡から野々上組をそれぞれ独立させ、計六郡となっている。さらに「常陸近世初期の潮来地方国紅葉郡鑑」(『玉造町資料三』)によれば、享和二年(一八O二)には、常葉、浜田、増井、石神、紅葉、大里、小菅、安良川、八回、大子、鳥(鷲)子の一一郡となり、天保四年(一八三三)までつづいたことが知られる。なお天保四年以降は四郡制に復している。さて潮来町域の村の内、水戸藩領の村むらである潮来、大洲、辻、延第l章方、築地、古高村が所属する郡(組)は南部から野合郡へ、そして紅葉郡へと変遷した。享和二年時点での郡奉行は、水戸藩の地方巧者として著名な小宮山次郎左衛門(楓軒)であった。「常陸国紅葉郡鑑」の各村に関する記載の冒頭には、次のようにみえる。O南fT方庄や平太夫清水潮来村与頭五人O南圧や市左衛門行方清水与頭壱人大洲村てコO南行方や庄1国介清水村与頭四人辻O南圧や五郎左衛門行方清水延方村与頭九人O南行方庄や延方より清水五郎左衛門古高村O南行方庄栄介や清水組頭三人築地村右の記載のうち、「南」とは旧郡名をしめす。また「清水」とは行方郡清水村のことで、「大山守」の居住する村落をあらわしている。郡奉行制とならんで水戸藩農村支配機構の特色として、大山守(北部では山横目という)の存在をあげることができる。大山守について「足民論」(小野武夫編『近世地方経済史料』一巻)はつぎのようにしるしている。山横目大山守は、一役の称にて部所にて名殊なり、御立山を支配する役人なり、村々御立山の多少にて数人づL下役小山守と云あり、神文役とて役威重し、承伝に中古御歴々の内御竹薮を伐たるを、大山守谷め札たるにより、公儀より御賞美あり此より威勢能なりたる也、近き比は公事掛り合多は、山横目の手を歴て役所へ出、御役所よりも山横目へ内済等にて取捌く故、公儀の権自然と百姓にわたり、291