ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
就任一覧姓名内藤五郎衛門内藤五郎次内藤順助内藤五郎作内藤貞蔵内藤五郎左衛門石田半右衛門秋永与兵衛内藤五郎左衛門柏崎勘左衛門片波見重右衛門大久保惣左衛門柏崎勘左衛門小峰孫右衛門柏崎勘左衛門小峰孫兵衛片波見五郎衛門小峰孫衛門小峰孫衛門関戸幸蔵柏崎勘左衛門窪谷太郎衛門榊原啓助樹原直助小峰孫右衛門関沢嘉助関口五郎右衛門岩井惣助門井与右衛門江口八郎兵衛岩井清兵衛平右衛門江口八郎次四宮八郎右衛門江口吉左衛門江口栄助窪谷太右衛門江口栄助江口要七穴沢文江田宮九兵衛岩本吉兵衛備考苗字御免天保16年苗字御免再動潮来村より兼帯(他村より兼帯のはじめ)潮来村より兼帯辻村より兼帯潮来村より兼帯再勤務慶応3年l代大山守列代々苗字帯万御免赤須、上戸、潮来、大洲、辻、延方、古高、築地、矢幡、堀之内、茂木て村政運営を監視する大山守の姿が想像されるのである。という農民であったが、その配下には富田、清水、永山、牛堀、島崎、存在したがこうした御立山の管理を主要な任務としつつそ、れを通しー延享二年(一七四五)の時点で、清水村に住した大山守は「次郎兵衛延」方村には二二町一反七畝二六歩、築地村には四三町四反四畝一四歩がといわれる。潮来村には御立山が三町五反九畝二O歩、辻村には八町一反二畝歩、は郡奉行の指示によって、庄屋・組頭を監視する隠密的な役割も担ったが確認されている(菅谷尚潮「保来御領村役人姓名」録『ふるさと潮』来七号)。的な性格をあわせもつような存在であったと把握できるJ。?Jφe'h、'-のちに七O)は石田丹後という潮来村の農民が、大山守として任命されたことと述べている。幕府領や他藩に一部みられたような、大庄屋・割元名主治元年(一八六四)は石田丹後、慶応四年(一八六八)から明三治年(一八Wいつしか「公事」H訴訟事の内済(和解)のさいの世話役のようになった十一年から天保十年(一三八九)は関戸幸蔵、安政五年(一八五八)から元近大山守の本来の職務は、藩営林である「御立山」の管理であったが、宮本平右衛門、文政九年(一二八六)から同十一年は関戸喜右衛門、文政なき故、公事懸り合の世話役の様になり(以下略)なお元文年中(一三七六i四O)は石田半右衛門、延享五年(一七四八)は世無理なる公事懸り合仕出しても、山横目内済の時得心せば、御答も村の合計二ハか村が置かれていた(前掲『玉造』町資三集料の解説による292 )。