ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世江戸時代は兵(武士身分)と農(百姓身分)の分離を、時代近村役人の位置と機能つまりの基本的な原理として成立した時代であった。武士の城下集住と、農民の土地緊縛を原則とする社会でWあった。武士である領主が城下に集住すると、在地にあって直接農民を支配し、年貢や諸役を徴収することは困難になった。かわってその徴収を村に請け負わせる方法、年貢村請制が成立した。こうして成立した村を、村請制村落もしくは近世村落といい、各領主は文書(法度、触、達書、御用状、年貢割付状など)の通達によって、村支配を実現したのである。ところで、領主が在地性を失うということは、村内部に領主の支配意志を理解し、村支配の媒介となるべき者の存在が必要不可欠となる。先にみた水戸藩農政の特色となる大山守の存在は、まさにこうした要求から誕生したものであった。ただ大山守の場合は、複数村を管轄するのであるから、おのずとその機能には限界があったものとおもわれる。そこで各村むらに置かれたのが、庄屋をはじめとする村役人であった。庄屋という村役人が農民身分に属しながらも、農村支配機構の末端に位置する存在であったと評価されるのは(佐々木潤之介『幕末社会論』)このためである。一般に村役人とは庄屋、組頭、百姓代の村方三役をいうが、水戸藩における村役人制が、いつ成立したのかを知ることは困難をともなう。そらくは寛永十八年の、検地施行による近世的村落の範囲の確定とともに、庄屋制度も整備されたのであろう。潮来地域の村むらもそうした村むらであった。また村によっては、名主の名称が用いられていたが、寛永末年には庄屋の呼称に統一されたという指摘もある(『常陸太田市史史編』)。つぎに菅谷尚保氏によって作成された、各村庄屋の就任一覧表(第Wl2943表)を引用し、水戸藩領の庄屋制度について考えてみたい。まず各村の庄屋の変遷をみると、ほぼ江戸時代を通して、固定された家から庄屋が任命されていることに気付く。つまり潮来村の場合は、関戸、石田、窪谷、宮本の四家によって担われている。大洲村の場合は、本村にあたる潮来村からの兼帯庄屋が多いため、同様の変遷をみせている。また辻村は、沼田、内藤家による就任が多い。延方、古高村の場合は、相崎、大久保、片波見、榊原家などによる就任となっている。築地村はほぼ岩井、江口家によっていることがしめされている。以上のような庄屋制を考えるにさいして、江戸時代の著名な地方書である、『地方凡例録』の記載を要約しておこう。同書には「上方遠国筋の庄屋は家極り数代連綿し」ているため、「之に因て庄屋の威厳重く村中能く治まり、庄屋の下知を背くこと少し」とみられる。つまり個別の村落秩序を維持していくには、世襲もしくは少数の家に固定した庄屋が望ましいことを、述ぺているのである。同時に同書はその弊害ものぺて、'20、v dak-つまり「威勢有に任せ我偉なることも多く、百姓の為にならざる儀もあり」とし、関東地方も昔は世襲庄屋が多かったが、右のような理由によって、享保期ころから年番庄屋が増えたと指摘している。近世村落の内部で広範にみられた村方騒動とはこうした庄屋の威厳から派生おする不正への糾弾であり、世襲庄屋制から年番庄屋制へ移行する画期に』F占っ'zu+JJ/右のようにみると、潮来地域各村の場合、限定された家が庄屋制を独占しており、時代に逆行しているようにみえる。」うした傾向は他の水通戸藩の村むらにも顕著であることから藩の政策自体が、限定された家に庄屋役を体現させることを、前提としていたことによるのであろう。ち