ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近第二節麻生藩の成立と統治W藤原秀郷の末流で、中世、近江国坂田郡新庄の地に居麻生藩の成立住しその地名を名乗った新庄氏は、慶長五年ご六OO)、関ヶ原の戦いで直頼、直定父子が西軍に加わった。そのため豊臣政権から安堵されていた摂津国高槻領二万六OOO石(『徳川賞紀』『藩翰譜』)、或は三万石(『廃絶録』「新庄家譜」)ともいわれた所領を没収され、身柄を会津の蒲生秀行に預けられた。新庄氏の改易による領地没収について『廃絶録』に、「三万石摂津高槻域新庄越前守直定」と記されているが、}れは名前の部分が誤りで、正しくは「駿河守直頼」である。しかし、慶長九年正月、駿府で徳川家康に、江戸で秀忠に謁見して罪かっちを許され、新たに常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂及び下野国芳賀、かわち都賀、河内八郡のうちに、合わせて三万三OO石の領地を与えられ、常陸国行方郡麻生を居住地とした。}れが麻生藩新庄氏の成立であり、れについて『思栄録』には、「慶長九年正月十五日新知三万三百石常州麻生新庄駿河守直頼」とある。ところで、徳川氏から新庄氏に与えられた領地にはどのような郡や村が含まれていたのか明らかでない。)の手がかりになるのが寛文四年三六六四)の「新庄直時宛領知朱印状・目録」(『寛文朱印留』)である。れによると、「常陸国行方郡之内拾九ヶ村那岡郡門毛村新治郡之内拾四箇村鹿島郡之内弐拾八箇村河内郡若柴村下野国芳賀郡内四ヶ村都合弐万七千三百拾七石壱斗」とあって別紙目録に郡毎の村名と、郡毎の石高が記載されている。具体的に行方郡の例をとってみると「常296陸国行方郡之内拾九ヶ村船子村水原村大生村之内石神村屋村嶋並村橋門村井貝村小高村沖須村手賀村南村麻生村藤井村出沼村西蓮寺村井上村高岡村手加浜村高九千四百壱石五斗四升五合」と記されている。なお、行方郡以外の郡の石高は新治郡九千百拾九石四斗八升七合、鹿島郡六千五百九拾九石壱斗三升四合、河内郡千弐百弐拾六石弐斗七升九合、那賀郡七百七拾壱石八斗六升、下野国芳賀郡弐千/\百九拾石七斗四升/\AEヨで}れを合計すると前記目録高と一致する。しかし、}の朱印状・目録は、寛文四年四月五日付のもので、新庄氏が領地を与えられてから六O年後のものである。」の聞に新庄氏は慶長十八年九月、二代藩主直定が父の遺領を継ぐにあたって、実弟の直房に三OOO石の地を分与し支族とした。}のため麻生藩領は二万七三OO石余となったのである。ちなみに麻生藩支族の旗本新庄氏が本家から分与され、廃藩に至るまで領有していたとみられる知行地は、行方、河内、信太、新治各郡と下野国内に合わせて二Oか村で、}のうち行方郡ではV」粗毛、荒宿、八木蒔、半原、青沼、蔵川、字崎、四鹿、杉平、行方、小幡の一一か村が含まれている。}れらの諸村ははじめ麻生藩領であったから、成立期の麻生藩の領地は行方郡内のかなりの部分を占めていたことになる。そしてまた、前記目録にある新治郡内の領地については元和八年(一六二二)、麻生藩は下野国石橋領一万石を常陸国新治郡内に領地v}替されているので、成立期からのものではない。したがって、寛文四年の「宛領知朱印状・目録」に、支族に割いた三000石の領地を加え、新治郡内のほぼ一万石の分を下野国石橋領に置き替えたものが、成立期の麻生藩領といえよう。