ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

近世初期の潮来地方第l章現在の潮来町域のうち、麻生藩の成立期からその領地となったのは、目録に「大生村之内」と書かれた大生、大賀、釜谷村に水原村を加えた大生原地区四か村で、町域の大部分を占める潮来(二重谷村のみ天領)、辻、延方地区は水戸藩領に所属していた。近世初期、つまり三万石時代の麻生藩の家臣構成を示初期の家臣団す分限帳の類で確認できるのは、「貞享年中鹿島領万石被領候節古書写新庄直好殿代」と書かれた古文麻生藩主新圧氏建立の大意山海了寺書(茨城県立歴史館蔵須田家文書)だけである。-F切手B-J、サ'φ'vL}の文書の題名には幾つかの誤りがある。その一つは「貞享年中: : :直好殿代」とあるが、麻生藩は貞享以前の延宝四年(一六七六)に無嗣断絶し、同年中に一万石で再興されている。また、麻生藩三代藩主である新庄直好は慶長四年(一五九九)に生れ、寛文二年(一六六二)七月二十二日に没しているから、「貞享年中」は「寛文年中」の誤りと思われる。ちなみに、麻生藩領のうち江戸崎領が鹿島郡内に領地替えされたのは、寛文三年九月期日(「諸侯年表」)であるから)の文書は直好の没後間もない寛文三年、江戸崎第IV-1図領が鹿島郡内に移された直後の状況を書いたものと考えられる。従って「鹿島領三万石」とあるのも、前記の「宛領知朱印状・目録」にある常陸園、下野国八郡のうち「弐万七千三百拾七石壱斗」が正確な数字である。さてこの分限帳から初期の家臣団についてみよう。名前の記載されている家臣を石高別に整理してみたのが第Wl4表である。まず、}の分限帳に記載されている家臣の総数は一六四人で}の人数は軍役の基準を示した慶安二年(一六四九)の「幕府軍役人数積」からみて極めて少ない。従ってこれに記載されない手代や中間、足軽などが少なくなかったと考えられる。297