ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世石高人数400石3001 ]2C人250230200180150 1130120 3100 3520人扶持215 21210 14小姓(無禄) 9 9無足27歩fT 38合計164近第IV-4表麻生藩初期の家臣団構成N次に、これを石高別にみると、二OO石以上の家臣数は二O人で、の二O人分の石高を合計すると五一三O石となる。同様に一八O石から一OO石の人数は五一人、その石高合計は五八二O石で、「貞享年中鹿島領三万石被領候節古嘗写J(茨城県立歴史館磁須田家文書)より作成わせた石高は一万九五O石となる。}れは麻生藩の総石高二万七三OOこの両方を合石の四一パーセントに相当する。}のほか、無禄の小姓九人、無足また、扶持高記載のものがこO人扶持から一O扶持まで一九人であり、この総扶持高は二二二人扶持となる。二七人、歩行三八人の切米などを考えると、藩収入のうち、分が家臣団への支出に宛てられたものと考えられる。さらに、家臣団構成のなかで最高四OO石の新庄伊衛門をはじめ、三00石の新庄文四郎、新庄平太夫、新庄平六左衛門など新圧を名乗る藩主の一門が知行高の上位を占めている。}れに次ぐのが、巷間の落首に「新庄の守りに勝ったる畠三好(紬)なくては舵は取れまい」と神田うたわれた三氏で、二五O石の畠四郎左衛門、一二O石の畠四郎衛門、神田氏では三OO石の神田権左衛門、神田吉太夫、三好氏では二OO石の三好弥次衛門、一二O石の三好助六、一OO石の三好弥兵衛などの名がある。かなりの部この一二氏は関ヶ原の戦以前、近江国やその周辺において新庄氏と同格、またはそれ以上の勢力や家柄を誇った武将であった。その例証として、298後世のものではあるが、「弐百五拾石三好七郎右衛門摂州若江飯盛ノ城主ナリ織田信長ノ為メ城地ヲ陥サレ浪人トナル新庄宮内卿法印実子直好(直定の誤)公ト従弟ノ縁故ニ依リ同家ニ寄遇ス」や、「弐百六拾石畑鎮雄三百石神田吉哉江州御旧地ニテ城砦ヲ有シ新庄家ト相呼応シテ祭杷ヲ保有セル名門ニシテ臣下ニアラズ」などと記されている(麻生町三好貞良家文書)。V}新庄氏は関ヶ原の戦で一度は改易となり、四年後に許されて常陸国麻生を居所としたが、その家臣の多くは新庄氏の一族を中心にして、摂津国高槻城主時代の旧家臣を呼び寄せたり、戦後浪人となっていた周辺の旧城主層やその家臣を招いて編成したものと考えられる。また、麻生を拠点としたため、家臣の一部は行方郡内の旧城館主ゃ、その家臣をも取り立てている。例えば常陸大嫁氏の一族手賀氏の分流で、旧鳥名木館主の子孫に対して次のような宛行状を出している。為領知行方一一而七拾石遺候全可知行候猶五郎右衛門尉可申者也元和弐年辰九月廿日(新庄)直定(花押)鳥名木学右衛門殿この宛行状は麻生藩二代藩主新庄直定が、元和二年(一六二ハ)鳥名木氏を召抱えたとき出したものであり、鳥名木氏は明暦元年(一六五五)に一OO石の知行地を与えられている(『茨城県史料中世編I』鳥名木文書三八号、四一号)。また、鳥名木氏の宗家筋にあたる手賀城主の子孫も、出仕の時期は不明であるが同様に麻生藩に仕え、郡奉行など藩の要職を歴任している。右のようなことからみて、麻生藩三万石時代の家臣聞は、上層部は新