ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

近世初期の潮来地方299庄氏の一族と旧城館主層からなり、その他の家臣団は近江、摂津時代の旧家臣ゃ、関ヶ原戦後の浪人、それに一部は佐竹氏の常陸国統一により、土着帰農した行方郡内の旧武士層を百抱えて編成されたものと考えられる。新庄氏は関ヶ原の戦で西軍に参加したた麻生陣屋の櫨構築め一日一は改易となったが、四年後に近世大名として再興、常陸国麻生を居所とし新fこ庄氏がなぜ行方郡麻生の地を居所と定めたか明らかでないが、常陸・下野両国八郡のうちで石高が最も多く、まとまっているのは常陸国行方郡である。それに推定ではあるが、新庄氏累代の居所が琵琶湖の東岸に位置する近江国坂田郡新圧であったことから考え、霞ヶ浦の東岸中央部に位置する麻生の地が近江国の故郷に類似し、しかも、霞ヶ浦や利根川の水運で江戸との往来も容易であることから、麻生を根拠地にしたのではなかろうか。また、麻生を居所と定めた新庄氏は、当初どこに城館を構築したのであろうか。現在麻生小学校になっている旧麻生藩陣屋跡は、三代藩主直好が藩主に就任した翌年の元和五年(一六一九)に設立したものである(「麻生陣屋地絵図面・麻生御殿向表御間取解説」『麻生の文化』一八号所収)。これから想像して、新庄氏の領地拝領から元和五年までの一五年間は、本格的な城館或は陣屋は構築せず、旧麻生氏の城跡(羽黒城)を一時的に使用したか、または麻生地内の何処かに仮の城館を設けたのではあるまいか。新庄氏の入封直後は戦国時代の気風第l主