ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

畑八(八斗)、下畑六(六斗)と定められた。次この検地の結果について、検地帳の残っている藩領北部の沖須(洲)村と、藩領南部の大賀村の様子をみてみよう。ただし、寛永検地の結果、北部の沖須村は田三七町五反八畝、畑二八町九反八畝、屋敷二町四反三畝九歩で、高合六四九石田斗二升四合。南部の大賀村は田一三町四O石六斗四升九合と決定された村である。七畝六歩、畑九町三反七畝二四歩、屋敷一町四反九畝二七歩で、高合四さて、第W5表は寛永検地帳から作成した大賀村と沖須村の階層構成である。)の表から、両村とも五反歩未満のものが多いが大賀村の四近世初期の潮来地方第1章寛永8年「大賀村検地帳」第IV-4図'rかくを占めているのが目につく。一パーセントに対して、沖須村では六回パーセントと全体の三分の二ち」の五反歩以下の耕作者のなかには、他村に家屋敷や田畑を所有し、「越石」の形で出作するものがある。大人、無屋敷の者が三O人である。賀村の場合、検地帳に名前のある七八人のうち、屋敷地を持つ者が四八}の屋敷所有者四八人について一人当りの平均反別を計算すると、七反二畝となり、また、無屋敷者三O人の平均反別は二反四畝となる。近世を通して大賀村の家数が四五戸から五らの越石百姓であったと考えられる。」の無屋敷者三O人のほとんどが近隣村かO戸内外であったことから、"i人九借金A本'ヘ一方、沖須村の越石百姓数は不明であるが、貞享五年三六八八)の宝暦4年「大賀村新聞検地帳」名寄帳にみられる入作者が僅か四人であるとから考えて、寛永八年当時の入作者もそれ程多いとは思えない。従って、検地の結果は村内に零細農民の多い第IV-5図」とを明確に示している。また、沖須村では五反から一町五反の中間層が二九パーセントと少なく、大賀村の中間層が五六パーセント301