ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
影響を受け、新治郡大岩田領八OO石の地を、茨城水戸藩ではこの百姓代の制度はなかった。農村支配の組織禄十年(一六九七い)わ、ゆる「元様の地方直麻生藩の支配領地は入封以来幾度か変遷したが、」しのフじ(庄屋、)組頭のほか、百姓代を含めて地方三役(村方三役)と呼ばれたが、序で上意下達されたのである。そして、幕府領や他藩の村々では、名主大きい。からの指示、命令は、村役人の割元名主|各村名主l組頭l五人組の順ついて不明な点が多いが、麻生藩の農村支配の基礎を確立させた意義はすなわち、藩家老|郡奉行|代官|手代を経由して出される麻生陣屋期までに再び親村に合併して村名を失っている。)の覧永の全領検地にの組織を使って各戸に洩れ無く伝達する。の独立村も、潮来町域に属する大生、大賀、釜谷の三村以外は、近世中組頭を呼び集めてその内容を指示、連絡さ、らに組頭は、末端の五人組なかろうか確。証はないがその可能性は強い。しかしこれら近世初期められた順序によって次村へ廻送する。通達を受け取った名主は村内の手賀村から手賀浜村が、石神村から小屋村が独立したのもこの時期では郷は於下村名主へ伝達され、各名主はその内容を御用留に写し取り、定の内から大生、大賀、釜谷の三村が成立したと考えられること、また、藩からの通達はそれぞれの割元名主を通して下郷は麻生村名主へ、上文禄或は慶長期の検地で「大生」村となり、さらに寛永の検地で大生村ある下郷に二人置かれて三人となった。村切りが行われたと推定されることである。例えば中世の「大生郷」が、多い大村の村役人経験者のなかから任命されていたが、後に麻生陣屋のさらに、寛永八年の全領検地で重要と思われるのこはの、検地のとき達したので、触頭とも称した。はじめは上郷と下郷に各一人宛、村高の帳を分析してみても、同様の傾向である。次に村役人としての割元名主は、麻生陣屋からの触書を各村名主に通禄元年(一六八八)、享保十三年(七一二八)、安永三年(一七四)の名寄か村は、特に「北浦四ヶ村」とも呼ばれていた。第IV-5表大賀村近大賀村,沖須村の階層構成沖須村反別人数比率人数比率世0~1反4人5.1% 30人24.8%1~ 3 16 20.5 3 27.23~5 12 15.4 15 12.45~7 17 21.8 16 13.27~10 18 23.1 5 4.110~1 5 9 11.5 14 11.61 5~20 2 2.1 2 1.6520 ~30 4 3.33 0~。。2 1.65須村の階層構成は元であった。)のうち現在の潮来町域にある大生、大賀、釜谷、水原の四メ口治、圭ロi 78人100% 121人10%寛永8年「大賀村検地帳」および寛永8年「沖須村検地帳」より作成している。なお、沖石神村(麻生町)大、生村、大賀村、釜谷村、水原村(潮来町)の二か村の違いを浮き彫りに下郷に所属したのは麻生村、島並村、南村、井貝村、橋門村、小高村、のが六人を数え両村田村(東茨城郡美野里町)、田島村、大足村(東茨城郡内原町)三の'一か村。村では二町以上のも人であるのに、沖須村五(町後田に村出、沼船子村村に(合併麻)生、町)高、手賀岡村村、(沖北(須玉浦村造村町藤)、)、井竹村原、中井郷上村村、、竹西原蓮新寺W町五反以上が僅か各村の名主を統轄する割元名主を置いた。上郷に所属したのは於下村、反面、大賀村ではする。麻生藩ではこの二四か村を上郷と下郷に区分し、両郷にそれぞれるのと対象的である。で行方郡内二Oか村、茨城郡内の飛地四か村、合わせて二四か村に固定と過半数を占めてい郡内四か村の内に領地替えされた。)れ以後、麻生藩領は廃藩に至302るま