ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近第三節鹿島神領の村むらW豊臣政権←徳川統一政権の成立は、中世以来、地域権力近世鹿島神宮領の成立として威勢をふるった鹿島神宮もまたその統制下におかれるようになったことを意味している。秀吉は常陸国において石田三成を奉行として文禄三(一五九四)、四年に検地を施行して、、h v }30'JK1これに次いで徳川政権も覇権の確立と同時、慶長七年に検地を施行するのであるが、)の時の検地によって近世u江戸時代における鹿島神領の範囲がほぼ確定したといわれる。鹿島神宮領について、さらには社領分の検地帳について、飛田英世氏が詳細に分析されている(「近世鹿島社領の形成と社領延方村・大生村|幕藩体制確立過程のなかで|」『茨城史林』一五号)。以下、同氏の論文に依拠して鹿島社領の村むらについてみていくことにしたい。鹿島大明神御神領書立之事一千三百九拾石三斗弐升宮中一円ニ渡一弐百六拾五石五升同所之内見取、理り在之地一三百四拾三石六斗二升佐田村之内にて渡但是ハ、先御神領在之内にて可渡(「伊奈忠次等連署神領目録案」鹿島神宮文書二O四、引用は飛回論文にょった)右の史料は、慶長七年ご六O二)検地の施行に基づき鹿島社領として二千石の地が宛行われたことをしめしている。飛田氏の解説によれば、史料中の「宮中一円」とは鹿島神宮の所在する鹿島郡宮中村のことであるzうまこのなかに「同所之内」二六五石五升分に「見取」地や「理り在306之」地と記されていることが問題になった。「理り」とは太閤検地によって除地(検地除外地)になったことをしめしているが、慶長七年検地では除地としてはあっかわれず、石高が付されて社領合計石高の一部として扱われているのである。つまり、除地として石高が付されていなかった分を含めての二千石であり、秀吉による社領寄進よりも実質的には社領高が減じたことを物語っている。}のため、鹿島神宮側は幕府に対し訴訟を繰り返すことになった。ここでは訴訟の具体的内容と過程については省略するが、以下のような文書が発給され一応の決着をみたという。(略)就中宮中居屋敷之事、貴殿無限骨折、御直御目安指上、御訴訟被申叶、然ニ為末代宮中守護不入之地-一被仰付、大明神へ一円に御寄附被成候子細、具ニ我等-一就被仰付候、御代官所行方領之内ニて、右宮中惣人之居屋敷替弐百六拾之辻、髄-一相渡置候、是者、堅貴殿知行ニ被下候、首尾御意請置候問、其段少も気遣有間敷候問、併者右之内百石之物成、手前へ可被納置候、其外之儀者、修理面三百石ニ取入被納置、重市勘定承合、其上残百六拾石所、連々如望之、宮中修理面ニ引替、相渡可申候(略)(慶長十年)嶋田次兵衛尉十二月廿六日重次(花押)大宮司殿参(「嶋田重次害状」鹿島則幸文書二O、引用は飛田氏の論文による)つまり、「宮中惣人之居屋敷」の除地が認められ、かわりに行方郡の幕府領から二六O石余の土地を与えることがしめされている。このうち一OO石は大宮司の所領として、残り一六O石余は「宮中惣人之居屋