ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
敷」の修理料となったようである。な神領書立が鹿島神宮大宮司宛に発給された。}れをうけて、翌慶長十一年十一月、島田重次によって、つぎのよう常陸国鹿嶋御神領書立之事一千三百九拾石三斗弐升一三百四拾参石六斗弐升高辻、合弐千石此内、千五百石新寄進右之分渡置申候、此外宮中各居屋敷等者、先縄之時分被除之由、任理ニ当御縄除之者也、以上慶長七年壬寅十月廿六日大宮司殿参但是ハ、先御神領之内ニテ可渡近世初期の潮来地方行方郡一百八拾七石壱斗八升一七拾弐石八斗仁升六合高辻合弐千石此内、千五百石新寄進右之分渡置申候、此外宮中各居屋敷等者、先縄之時分被除之理、任第l章断当縄除之者也宮中一円ニ渡佐田村内ニテ渡内藤修理亮(清成)嶋田次兵衛(重次)長谷川七左衛門(長綱)彦坂小刑部(元正)伊奈備前守(忠次)延方村内ニテ渡大生村内ニテ渡慶長拾壱年霜月十五日嶋田次兵衛尉大宮司殿(『茨城県史料中世編I』)徳川幕府による鹿島神宮に対する領地の寄進状であり、二OOO石の社領が改めて公権下に保証されている。史料中にみられるように先に記した除地の代替地u大宮司知行分と「宮中惣入居屋敷」の修理料が延方・大生両村内において宛行われたことが記されている。延方・大生両村ともに、中世初頭は摂関家より寄進された鹿島社領であったという。戦国の争乱は容赦なく社領への侵略を繰り返し、中世後期には両村が社領であったとはみられない。つまり、両村の一部は徳川全国政権の成立とともに鹿島社領に復したのである(飛田前掲論文)。前節で述べたように、延方村は慶長十四年には水戸藩領となった。また、大生村は、慶長九年の新庄氏の入封とともに麻生藩領に編入された。以降、両村は水戸藩および麻生藩と鹿島神宮の支配をうける相給村落として明治時代をむかえるまで存続したのである。ただ第一節で掲げた第wl2表でみれば、『旧高旧領取調帳』は幕末の村高をしめすものであるが、延方村の項には鹿島神宮朱印地として一八七石一斗八升がみられる。}の高は慶長十一年の神領書立にみられる寄進高と一致する。同じく、大生、大賀、釜谷村には、それぞれ五六石一斗六升一合、九石五斗四升八合、七石一斗六升の鹿島社領朱印高が記されている。三者を合計すると七二石八斗六升九合となり、神領書立にみる大生村内の寄進高とほぼ同数値となる。ただし、慶長十一年の段階では「七拾弐石八斗仁升六合大生村内ニテ渡」と記すのみで、大賀・釜谷両村の村名はみられない。右の三か村がそれぞれ隣接する村であることから考えるならば、おそらくは寛永十八年の検地施行とそれにとも307