ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

兵衛であり、山田喜兵衛はその配下であったというこ。の慶長十一年検ちコ削谷」「さか下」は谷津田であるが、「大町」「みかきめん」などはあるが、そのときの検地奉行が先の神領書立の発給人である代官嶋田次大生村の場合は、大生神社の北西部に集中して所在している。このBフ大生村をはじめとする当該地域には慶長七年に検地が施行された形跡がとの背景となっているという。十一年午ノ霜月十五日嶋田次兵衛内山田喜兵衛」とみえる。延方、辺部の微高地に所在し、背後には沖積地や谷津がひかえ、水田が多いこう検地帳が残されている。}の検地帳の奥書には「慶長とができる(現在の潮来町延方乙地区)。地形的には低湿ク地リー、ク縁社領の所在両村の鹿島帳」(鹿島神宮物忌家『潮所来蔵町、史料近世』編所収)とい場合は南部川現在の前川左岸、国道五一号線にそってその分布をみるこ慶長十一年(一六O六)「常陸国行方郡延方村大生村水現行行政においてはすでに失われている字名を多く含むが、延方村の領の一部を構成する村々として出発したのである。両村における鹿島社領の分布(耕地の所在)についてみておこう。とおもわれる(後い述ず)れ。にせよ、当該地域の一部はこうして鹿島社であったことは先に記した。まず、第wi7表、第W18表によって、なう「村切り」つまり村の範囲の確定によって朱印地が分散されたものある。延方・大生両村がそれぞれ水戸、麻生藩と鹿島社領との相給村落第IV-7表延方村土地構成(慶長1年)種目別面積(筆)小字別面積(筆)畝歩IV近畝歩そり町252.15(12)×そのへ沼294.06(7 )畝歩上沼197.15(6)×あつま下53.19(3 )中田888.14(38)長ミね68.21(7)こし、てコミ10.24( 2 )×たう町10.04(1 )モリ町195.24(12)そのへ沼76.16( 1 )長せう261.24(19)あつま下66.23( 7 )下回816.05(49)長ミね12.28(2)江崎前88.12 ( 2 )すか前いないかノ、70.00(4)中さく35.00(1 )こL、つミ8.26( 1 )中畑45.26(8 )そのへ沼13.26(2)長せう2.10( 1 )あつま下19.00(1 )長ミね1O.20( 4 )そり町17.26(7)そのへ沼39.16(12)長せう11.00(4)あつま下30.03(4)下畑130.07(41)長ミね22.12(11)中さく6.20(2)×の中山崎道泉2.20(2)永荒畑20.12(1)長せう20.12(1 )屋敷32.14(12)すか24.24(10)須崎7.20(2)×現在は消滅した小字名,以下同じ下回には「長せう」の「山下回12畝」を含むC )は現行表示そり田rC反町).長せう(長田rl.長ミね(永峰).すか前いないかハ(須賀).前の(稲井)11).中さく(長作).こいつミ(小泉).須崎(洲崎).江崎前は一応,第wl7表1第Wl9表は慶長十一年検地帳をもとに作成したもので江崎の隣接地に比定する飛田英世「近世鹿島社領の形成と租領延方村・大生村Jcr茨減史林J15号)所収の表をそのまま引用.以下、検地帳と飛田氏の論点とともに若干の考察をおこないたい。地帳も同七年検地帳から鹿島社領分を書き抜いたものであるといわれる。第IV-8図慶長1年の鹿島神領水帳世308