ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第l章近世初期の潮来地方第IV-8表慶長1年検地帳にみる名請農民順位名請名田方面積畑方面積屋敷面積面積合計助直日畝歩畝歩畝歩畝歩45.04 16.0 4.28 66.022わけ2.256.2029.153掃部助24.162.0326.19人4三右衛門8.24 12.28 2l.225助右衛門16.16 16.16名6彦良日4.088.003.015.087平10.1210.128新右衛門9.16 9.169五良区8.20 8.20よ10与八、良日8.15 8.15る1総右衛門6.12 6.1212孫右衛門2.28 2.20 5.18名13市正2.12 l.24 4.0614甚七l.25 1.14 3.09請15弥十3.0 3.016市右衛門2.21 2.2117助四良E 2.20 2.2018半」ノー、l.24 l.24みかきめん73.1073.102ほうおう6l.246l.243ろうせい町54.1454.144すな入町40.0740.075浮谷38.2438.246五反田38.2138.21字7寺田36.1036.108こしまき34.1834.18名9蔵道町30.2430.2410そりE自25.0025.001くIfE自2l.252l.25よ12円IJ谷16.14 16.1413町国14.12 14.12る14なきさ14.10 14.1015名L、と下8.18 8.1816さip下8.10 8.10請17 .,ろ町8.0 8.018ムノ\回々8.08.019おこないてん5.285.2820はfこfこ5.035.0321高回4.214.2122山下l.20l.2023兵蔵切l.05l.0516位の市右衛門は屋敷1筆を名脅しているが.分付地として貸与している飛田英世「近世鹿島社領の形成と社領延方村大生村Jcr茨城史林J15号所収).および艦長1年「常陸国行方郡延方村大生村水帳Jcr潮来町史料』近世編所収)より作成.309期的な役割をはたしたのが、豊臣秀吉による太閤検地であり、徳川幕府帳が作成された。}れが検地帳(水帳、縄打帳)で}あのる検。地帳に記伽l)の兵農分離を国家の制度までたかめる上で画を算定するのである。検地が実施されるとそ、の結果が記された土地台地帳について原理のひとつとして成立した時代であった(兵農分離慶長十一年検りの標準生産量をさし、}れを各耕地面積に乗じて分米川生産量H石高江戸時代は兵(武士)と農(百姓)の分離を時代の基者本を的田、畑、屋敷地一筆ごとに確定したものである。石盛とは一反当た的に存在していたものとおもわれる。検地とは、土地の面積を測量し、耕地の等級、石盛、分米および耕作いずれにせよ、両村における鹿島社領の地理的分布は一定の地に集中その社領を耕作する農民にも適用されたことを意味する。るという。ることをも内包するものであったつ。まり、}うした原理は鹿島神宮と和の名残り、「ほうおう」は大生氏の居城であった鳳風台城の跡地であするならばそ、れは身分制の確立であるから、寺社などと農民を分離す北浦沿いの広大な沖積地上にある。また、「まつは」は中世の大生郷松や他の領主による幕藩初期検地の施行であった。兵農分離を広義に解釈