ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世記すことによって耕地の帰属する村を確定し、耕作は村の責任に任されたのではないだろうか。あきらかに耕作者が同村内に存在する耕地には近名請人名が記されたのである。延方村分検地帳には「分付」関係が広範Wに存在するのに対し(後述)、大生村分にはそれがほとんど存在しないこともこのことと関連するのかもしれない。いずれにせよ、右は想像の域をでないものである。後日の検討が必要となろう。次に、延方村分の記載様式をしめそう。長せう州問下畑壱畝十八歩川十七棚下回壱反弐畝十六歩計棚下畑廿歩AiCの三通りの記載様式がみられる。Aは基本的な検地帳の記載様A猪之助今泉新右衛門新へもん分甚右衛門BC式で、「長せう」に所在する一畝一八歩の下畑を「猪之助」が名請けしていることをしめす。Bの場合は「今泉」のように名請人の居住する字名もしくは苗字ともおもわれる肩書きが付されている。Cは「分付」記載といわれるもので、一般的には耕地の所持権(耕作権)は「新へもん」が持ちながらも、それを「甚右衛門」に貸与していることをしめしている。「新へもん」のような農民を「分付主」、「甚右衛門」のような農民を「分付百姓」などとよぶ。さて、第W9表では、B、Cの記載は広範にみられる。「分付」記載に関しては、}れまでにも多くの議論がなされてきた。つまり、太閤検地および幕藩初期検地は「一地一作人」の基本原則のもとに施行されたものであったから、未だ一人前の農民として自立しきれていない農民を「分付百姓」として登録せぎるを得なかったなどという評価がそれである。もちろん表上に登場する「分付百姓」も、その経営規模からみて、そうした農民であったともとらえられるのであるが、それとは異なった312指摘も可能なようにおもわれるのである。先に述ぺたように、江戸時代初頭に施行された検地においては「村切り」が不徹底であった。それは耕地の帰属もさることながら農民に対する「村切り」も不徹底であった。つまり、農民の耕地所持の慣行は一円的に所持するのではなく、きわめて分散的に所持するものであったから(このため、検地にさいしては耕地の交換がおこなわれることもあった)、慶長検地における一応の「村切り」の結果、居住村以外に耕地を所持する農民が相当数みられるようになったのではなかろうか。そのため居村以外の耕地を他の農民に貸与するという方法、すなわち「分付」記載形式がとられたのではなかろうか。延方村分記載における「分付」記載の多さの背景の一端とも捉えられる。また、Bの記載のように居住する字名を肩書きとして付されている農民もこうしたことと同様に捉えることができるのではないだろうか。つまり、慶長期の一応の「村切り」の結果、自らの居村とは異なる村落における名請が、Bのような記載をもたらしたともおもわれるのである。なぜ、大生村分と延方村分の記載が異なるかについては、現時点では不明としかいえないのであるが、以上のように耕地、農民に対する「村切り」の不徹底も考えられるのではなかろうか。ふたたび、第W18表および第W9表によって、農民の階層構成社領を耕作する農民の所持耕地面積をもとにした階層構成についてみたい。延方村の所持面積をみると(第W19表)耕地所持の最高は「猪之助」の四町一畝二O歩となる。しかし、そのうちの二町二反一畝六歩は分付地として貸与しており、実際の経営面積は被分付地H一反四畝二八歩を