ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

加えた一町九反五畝一二歩となる。慶長十一年検地帳には田畑一筆毎に分米(耕地の生産量H石高)の記載がみられない。ただ奥書にはつぎのようにみられる。上田合四反弐畝廿四歩此分米五石五斗六升四合中田合壱町九反壱畝十歩此分米弐拾壱石四升七合下回合三町弐反壱畝拾弐歩此分米弐拾八石九斗弐升六合上畑合但屋敷共ニ三反五畝五歩此分米三石五斗弐升七合中畑合六反壱畝廿三歩此分米四石九斗四升三合下畑合壱町四反七畝四歩此分米八石八斗弐升九合右の記載によって田畑に付された石盛(一反当たりの標準生産量)は、上回一石三斗、中田一石一斗、下回九斗、上畑および屋敷一石、中畑八斗、下畑六斗であったことが判明する。田方の平均が一石一斗、畑方の近世初期の潮来地方平均が八斗、つまり田畑の平均は反当たり九斗五升の石盛となる。数値を単純に利用することはできないが、一応の目安とするならば、とえば所持面積一位の「猪之助」の所持面積の石高は三八石一斗五升八A口、このうち主作面積の石高が一七石一斗四升四合余、分付面積の石高が一二石一升四合、被分付面積の石高が一石四斗一升八合余となり、経第1章営規模は石高に換算して一八石五斗六升二合となる。一般に江戸時代の農民は、七、八反から一町二反前後を所持していれば、年貢を納入し、来春の種籾を残したうえで、経営を再生産することができたといわれる。)の反別(面積)を石高に換算すると七、八石から一二石前後となる(『茨城県史近世編』)。}のことを逆にいえば、おそらくは二町以上を所持した場合、その経営は家族労働力だけでは困難であったことを表現している。とすれば、「猪之助」の経営は主作石高と被分付石高の合計である経営規模石高一八石五斗六升二合という数値は再生産可能な上限に近いものであったということができよう。二町二反一畝余の耕地を分付地として貸与している背景となる(譜代の下人などを抱えていないことを前提としているが)。右のことからすると、たとえば所持面積二位の「太郎左衛門」は三町一反九畝二二歩を所持しながら、経営規模石高川一石八斗九升三合余となる。」れでは経営の再生産は困難なものとなる(もちろん、分付主としての作徳はあるが)。以下、同様にみていくと(単純に経営規模からみると)、第W1 9表にみられる限りでは大多数の農民が再生産困難な農民であったことになる。また被分付百性についても「平右衛門」以外は再生産困難なものとなる。以上のことをどのように考えるべきなのであろうか。表のとおり、延方分の検地帳記載にみる名請人には「石田新右衛門」「園部左京」のといったように、居住する場所をしめす字名とみられる肩書きを付されたていることが極めて多い。}のことからすると他村からの入作農民、もしくは同じく延方村内でも社領以外の農民が多く検地帳に登録されていたことが想像されるのである。おそらく、}れらの内の多くの農民は表には登場しない耕地を所持していたとも考えられるのではないだろうか。すなわち、ここでも、先に述べた近世初頭に施行された検地、当該地域の場合は慶長七年検地における村切りの不徹底がこうした状況を現出さ313