ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

自領の農民として確定できたのかもしれない。その他の耕地については一鹿島御神領行方郡延方村之内、高百八拾石余之処、夏中先達而申る名請が多かった。社領分の農民としてのこの時点で屋敷地登録人は、乍恐以書付御訴訟申上候事領内に居住していることが窺い知れる。農民支配の一端}れとは対照的に字名のみによ家文書「貞享二年覚書」より抜粋)。鹿島社領における載はみられない。チ' ?JJ、一z八-名の内、九名に屋敷地の登録がみられ、社つぎのような史料が残されている(鹿嶋市鹿島則幸われる。人名による名請は一八名みられ、延方分記載にみられた分付記昧で掲げたものである。詳しい検討は後日に期したい。第W!8表の大生村記載分の場合も右と同様に考えられるものとおも第wi9表と同様な指摘ができるものと考えられることを付け加える意したことを背景とするものであったとしておきたい。ある。表は慶安二年(一六四九)の状況をあらわしている、が第W18表、不明であるが(後述)、近世初頭における鹿島社領農民の階層構成はこう生宮大明神」四O石の社領を名請する農民の階層構成をしめしたもので知行付百姓の決定が鹿島社領における農民にも適用されたのかどうかはなお、第wm表は、豊臣秀吉によって寄進されたと伝えられる「大せているものとおもわれるのである。)の後、旗本領にみられるような先述のように暖昧であったと捉えられるのである。第IV-10表順位名請人回方面積畑方面積所持面積回数畑数市之正畝歩畝歩畝歩38.14 38.1422新右衛門29.157.036.15l23四郎兵衛28.0828.0834禅正25.2025.20l5弥七郎12.159.2722.1216二郎右衛門12.099.2422.0317助四郎12.097.1219.2118たん正19.1019.10l9甚右衛門8.0610.1218.18210源八郎17.1717.17211清五郎16.2016.20l12助九郎16.0916.09313彦右衛門15.1015.10l14甚七郎7.267.014.26l15縫殿丞14.2514.25216ぎやう部14.2414.24l17治郎右衛門12.2712.2718居楽12.1412.1419助次郎11.1011.1020甚五郎10.2210.2l21新兵衛8.188.18l22又五郎8.078.0723芝、なの8.068.0624与六郎7.247.24325源右衛門7.157.15226源左衛門7.07.027助六郎6.246.2428総九郎6.06.029与右衛門5.105.1030小七郎5.05.0031主水4.154.1532弥八五4.074.0733与七郎4.064.0634久右衛門4.04.0034藤右衛門4.04.0234ちてコ4.004.0037平右衛門3.193.1938新次郎3.103.1039甚右衛門3.063.0639助右衛門3.063.0641新五郎3.043.0442新左衛門3.03.043対,馬2.282.2844彦三郎2.202.2045平左衛門2.032.0346志んしき2.02.046総七郎2.02.046総右衛門2.02.046甚/\2.02.050三郎兵衛1.271.2751清七郎1.141.1452助ワワ総言十218.01 304.23 522.24 15 56W近廃安2年大生宮大明神領名請集計表「回数Jr畑数」は田畑の所持筆数をあらわしている.総計からは助三分(而積不明)は除いてあるlfi安2年「行方部大生宮大明神社領Jcr潮来町史料近世編』所収)より作成世314