ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
上候通、当年之日てりに不作仕候、乍去右之内八反歩仕付申場所、過半枯捨、其外皆不作-一罷成、種ヲ失、夫食-一飢申百姓数多御座候、迷惑仕御訴訟申上候、乍樺御了簡ヲ以種・夫食分一一御蔵金子百両利無シ五年上納ニ御拝借被仰付被下候ハ、、百姓助り可申と奉口口口、延方村之内、御神領之儀者、定免-一相定申候、(中略)右之場所、十月中御代官衆御見分被遊候通り少も偽り不申上候、御了簡ヲ以上種・夫食分、御蔵金子百両利無五年上納一一御拝借被仰付被下候ハ、、難有可奉存候依市如件貞享二年丑延方村十月日新右衛門判茂右衛門判名主同(以下一一名略)惣百姓共鹿島御修理領御代官伊藤与兵衛殿山本弥右衛門殿小野長右衛門殿右の史料は貞享二年(一六八五)において延方村内の鹿島社領分が不作近世初期の潮来地方にみまわれたさいの・ものである。}こでは種籾と夫食(食料)に充当するため、「御蔵金」より百両の無利息での借用を願い出ていることがわかる。まず、史料中に「延方村之内、鹿島社領之儀者、定免一一相定申候」とある。つまり、貞享二年の段階で社領分の年貢が定免法(年期を決めて、第1章その期間中は定額の年貢を徴収する方法)で徴収されていることがわかる。あえてこのように記すことからすると、社領以外の耕地は水戸藩領分では、検見法(年々の作柄に応じて年貢を徴収する方法)によっていたものと考えられる。}の時点での定免法とは鹿島社領特有のものであったのではないだろうか。また、「鹿島御修理領御代官」ともみられる。おそらくは社領支配のために設けられた独自の支配機構なのであろう。さらに、この史料の差し出し人として「名主新右衛門、同茂右衛門」のほかに一一名の農民が登場し、最後に「惣百姓共」とみえる。一一人の農民には「名主」などの肩書きはみられない。先に、いわば「社領付百姓」が存在したのか否かは不明であることを述べたが、「惣百姓」と区別される一一名の農民が社領の農民であったとも捉えられる可能性もある。以上のことを、右の史料が貞享二年という、江戸時代の比較的早い時期のものであったこととあわせて考えるならば、鹿島神宮も領地をもっ。その意味では封建領主としての独自の性格を、除々に再構築していたとも捉えることができるのである。いずれにせよ、延方・大生村の農民は鹿島社と水戸藩・麻生藩というこ重の支配をうけながら江戸時代を生きたのである。315