ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二章潮来地方の村むらと農民生活第一節農民生活の様相近世の潮来町域の村むらは、前述のように水戸藩徳川氏村の支配と年貢負担に属する旧潮来、津知、延方地区と、外様大名新庄氏の麻生藩に属する旧大生原地区とに大別される。現在の行方郡のうち麻生町、玉造町と潮来町の一部が麻生藩領三万石、飛び地として牛堀町と残りの潮来町域が水戸藩領一万石(二重谷新田は幕府領)、ということになる。近世の村は、ほぽ現在の大字程度の地域を単位としていた。村むらの規模(生産力)を表す石高とともに示したものが第WH表である。潮来地方の村むらと農民生活表のうち元様十五年(一七O二)と天保五年(一八三四)については、幕府が「国絵図」とともに全国的に作成した「郷帳」に基づくものである。ただし、「元禄郷帳」は幕府から各領主にあたえられた時点での石高(拝領高)を集計したものである。したがって、元禄時点での実際の生産力を表すものとは言い切れない。「天保郷帳」はさらに「込高」「新田高」を加えており、実際の生産力に近いものである。なお明治元年のものは、明治新政府が各府県の歴史編纂の基礎資料として、調査させた「各村旧第2章高簿」によるものであり、各村の支配関係を細かく知ることができる。この中で無住の二重谷新田(幕府領)は、潮来村に含まれた形で記載されている。また表の中で「朱印地」は、鹿島神宮や長勝寺が将軍の「朱印状」を得て、直接の支配地として認められ、租税徴収権などが与えられていた土地であり、「除地」はそれぞれの寺社が、領主から年貢などを免除された土地である。各村とも近世を通じて領主の変更はなかった。しかし、いくつかの村については独立、合併が見られる。二重谷、大洲の各新田は開発の進展にともない近世中期以降、独立した村として認められたが(第二節参照)、近世初期には独立村であった須崎村や古高村が、その後実質的に延方村のなかに包含された場合もある。古高村の場合、延方村の庄屋が兼ねており、「其地延方村三父錯シテ、殆一村ノ如シ」(『新編常陸国誌』)という状態であったことも、その一因であろう。また、本来は古高村が延方村の親村であったと伝承されている。それでは、各村の人口は、どのくらいであったのだろうか。麻生藩領の村むらについては史料が少ないが、例えば、大賀村内天保十四年(一八四三)で一二六人、大生村が文化四年(一八O七)で九五人である。水戸藩領についても史料は限られるが、第WU表にまとめたとおりである。潮来村、延方村の人口の多さが際立っている。江戸時代は一般的に、舟運が栄えた場所の人口が多いが、ちなみに享保六年(一七二一)の土浦の人口は、延方村よりやや少ない二二八六人、天保十四年(一八四一二)でも四七六五人である(『土浦市史』)。潮来は県内でも有数の在郷町で317