ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第2章潮来地方の村むらと農民生活第IV-12表水戸藩領各村の人口変化享(1保7138年)天(1保84154年)嘉(永18541年)潮来*2608人2857人640戸3484人大洲**273 346 61 325辻361 660 140 726延方2744 2680 183 3372築地451 281 62 325*は明和4年(1767)の分. *は延享4年(1747)の分である2享保3年に掲出した分は「常陸紅葉郡鑑J.天保15年は「天保15年春潮来御領正人別改J(須田家文轡).嘉永4年は「潮来御領人別高改J(須田家文書)によったれる。るものが多かったからと考えら回の石高たため、時代がたつにつれ没落す抜けて土地を持つ豪農が少なかっのが特徴といえよう。}れは飛び第IV-13表問わず、かなり交替する例が多い対し、潮来地域では領主の相違をが、長期間世襲する形が多いのにには中世土豪の系譜に連なる豪農表に示した通りであるが、般的「庄屋」については、第wluどがが、交潮替来で地勤め、一六村を管轄下に収めていた(『水戸市史中巻目』)。域は、潮来村の関戸家、牛堀村の須田家、清水家の大崎家な大賀村宏、兵衛の文政2年の本年貢負担0.39石(永日1)1.326石(不作引)0.6852石(請免引)残り4.5058石→取米2.5818石(37.4%)1畑の石高0.415石→取米0.1 19石(28.7%)ー2定式0.0417石一3山池守給出人馬残り納入年貢6.907石上からの差引0.014石40.3813石一5納米の合計3.1378石一1+2 +3 +4 +5上からの差引0.417石(船積l俵分引)2.6258石0.04石(もち米分引)0.025石(取人馬分引)0.03石(池普請分引)6俵と0.1238石ぃ、相応の権限をもっていた。庄屋の中から名望のあるものが選ばれた俗、治安の維持に当たるまで、藩支配の下部組織として重要な職務を担内2俵は「教育御救」寅年より辰年まで3年分4俵と0.1238石(1俵約0.417石)持高の24.4%rg[l御物成勘定帳J(箕輪家文書)より319手'-h・町A刃、、ほか、に、庄屋の人選、懐胎出生を初めとする調査、訴訟、勧農や風まず「大山守」は、藩有林である「御おたてやま立山」の管理が主な任務であっ土地を所有し耕作を認められる「本百姓」と、他人の土地を借りて耕作がある。一口に農民といっても、その身分は一様ではなかった。大別すると、はなく「十人組」制が享和三年(一八O三)まで行われるなどの点に特徴それぞれ「山横目」を置いている。村政監視役とされる「百姓代」が置かれなかったほか、「五人組」制で村に置かれた陣屋が直接支配を行った。また領内を上郷と下郷に分け、藩の職制では郡奉行が支配を坦当した。一般的な「村方三役」のうち、名称は異なるが水戸藩とほぼ同様と見ることができよう。これを麻生大山守|庄屋|組頭|十人組(のち五人組)割元名主|名主|組頭|五人組あった。麻生藩の職制は次の通りである。次に支配の仕組みを見てみよう。まず水戸藩は、基本的に次の通りで辻四人、延方と古高計九人、築地三人である(『常陸紅葉郡鑑』)。あった。「組頭」についてはその数(享和年間)を示、す潮と来五人、大洲一人、