ブックタイトル潮来町史

ページ
333/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている333ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

している「水呑」、さらに家族すら認められない隷属農民に分けられる。さらに本百姓の中でも、持高や由緒などにより階層が構成される。そのほかごく少数ながら「郷土」とよばれ苗字、帯万を許されるなど、士分の扱いをうけた農民もいた。水戸藩の場合、とくに幕末期に豪農が、藩に献金をした見返りとして許されることが多かった。年貢については本年貢といわれる田畑からの税の徴収は、まず「検見」が、郡奉行配下によって行われるが、}れはいわば作況調査である。この結果に基づいて、十月になると村あてに村高に応じた納入量が、「割付状」に記載されて下げ渡されてくる。)れを村内でさらに二PJとに、割り付けるのである。例えば大賀村の忠兵衛は文政二年(一八一九)には第W!日表のように課された。一見して明らかな通り、田についてはさまざまな名目で、「引」すなわち「控除」があるが、畑については見られない。しかし税率は田のほBつが古向い。そのほか付加税を加えたのが、表中の納米の合計である。らにこまごまと引かれるが、}れは「諸手当」のようなものであろうか。ともあれ、最終的に四俵余りを納入することになるのだが、全てを合算潮来地方の村むらと農民生活して米で納入する点は一つの特徴である。また畑年貢については、金納というのが一般的である。ところで「割付状」を名主が受け取ってから、その取り扱いについても定められている場合がある。次にあげるのは、宝暦五年(一七五五)の「行方郡水原村五人組運(「連」の誤りと恩われる)印帳」(浜野元市家文書)の条々の中の、一条の大意である。毎年、年貢の「免定」(割付状)が出たときは、村中のものに見せな第2章ければならない。村中のものや、他の村から入作している者まで残らず知らせて、「寄AEを聞き一軒毎に割り付けなければならない。疑わしいことがないようによく理由を説明し、書き付けを写させて、さらに「免定」の奥に別紙をつけ、銘々の印鑑を押させること。また蔵の戸にも、「免定」の写しを張っておくこと。また一軒毎に割り付ける際は、平等に、また計算違いのないように、念には念を入れて申し渡し、遅れることなく納められるように村中申し合わせる}'と。領主の立場とすれば、村に対して割り付けた分量を、きちんと納入さえしてくれればよいのだが、村の中で何らかの「騒動」が起こると、年貢納入はもとより支配自体を揺るがすことにもなりかねない、ということを最も警戒した。くどいほどに「公明正大」さを要求しているのは、このような背景がある。とくに「宝暦五年」は江戸時代中期にあたるが、このころになると、名主の立場は以前よりかなり弱体化している、とし、う背景もある。さ麻生藩の場合、「本年貢」以外に村むらが負担したものには、次のようなものがある(「地要考雑記」安政五年)。御膳米栴米大豆胡麻繍(ほしいい)御用渋(柿渋)q鴻麦御用野萱栗箸魚串竹箸これらは一見して分かるように、江戸屋敷や陣屋で、日常消費するこまごまとしたものである。とくに麻生藩のような小藩は、江戸に近いこともあり、細かい物品に至るまで領内で極力調達することが、財政上要求されていたと思われる。そのほか人足や馬についても、村高一OO石につきそれぞれ三人、五疋の割合で差し出すようにと定められていた。また「運上金」も、例えば「釜谷村銭五百文」というように課されて、i、JO、u v・4ペこれらの品々も本年貢同様に農民一軒毎に割りあてられた。水戸藩の場合、『常陸紅葉郡鑑』によれば、潮来村には次のような税が課せ321