ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近Wられている。鳥運上御蒲金浪逆川州体銭浪逆川真菰役銭納竹これは最も多い例で、他の村では「鳥運上」と「納竹」のみという場所もある。また、村内の山林にかけられる税もある。山林は藩が所有する「御立山」と、村が所有する「分附山」に大別された。麻生藩の場合、享保年聞に「山払い」や「薪割り」などの夫役にかわって、金納として一反にっき銭六文の割りで納入することになっており、幕末の安政五年(一八五八)には、領内の山年貢の総高は五二貫一一六文にのぼり、藩財政に大きな比重を占めていた(植回敏雄「麻生藩の財政」『茨城史林』創刊号)。近世はおよそ三00年間であるが、}の間農村の様子は322寛永8年「大賀村御水帳J(写)農村の変化)こでは水戸藩の農政を軸にして大きく変貌を遂げた。麻生藩の動きを加えて、}の聞の農村の変化をみてみたまし、。ず便宜的に享保時代までを、前期として区分して見てみよう。の期間は一般的に戦国時代の名残りが徐々に消えて行く時期である。具体的に略述すると、初期には戦国大名の家臣であった者が「万狩り」などの兵農分離政策の結果、農民化の道を選ぶが、なお多くの土地第IV-9図と農民を支配して、いわばタテのつながりによる大規模な農業経営を行っているが、しだいに農民たちは自立し一軒毎の農民のヨコのつながりによる農村共同体に変化して行く、というものである。ところが大賀村に伝えられた、寛永八年(一六三一)の検地帳(箕輪家文書「寛永八年大賀村検地帳」)によると、土地の広さが三反から一町五反までの農民が、五五パーセントと過半数を越えている。また他地域に比ぺ、一町五反以上の土地を所有する者が皆無という点が特徴的である。の傾向はこの村に限ったことではない。幕末までを含めて、当地方には庄屋などをつとめるような、「豪農」というべき農民が極めて少なかったょうである。このことは没落などによる庄屋役の交替が近世を通して比較的多いということにもつながってくる。残念ながら前期については伝えられた史料が極めて少ないため、れ以上農民の生活の様子をうかがうことはできない。そこで水戸、麻生両藩の政策から、農村の様子を推しはかつてみたい。幕藩体制はいわば地方分権的な性格をもっており、基本政策は幕府に準拠するが、施行にあたってはその地域ごとに相違が見られることが多ぃ。例えば水戸藩の場合、寛永二十年(一六四三)に「田畑永代売買の禁