ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近W享保を過ぎると、第IV-1図大洲新回年貢割付元帳さらに幕府各藩の財政状況は悪化した。八代将軍吉そういった危機を脱出すぺく試みられたこ宗による「享保の改革」は、とである。享保よりやや後の元文二年(一七三七)に、勘定奉行に就任しるものなり」は、た神尾春央の言葉と伝えられる、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでいえよう。」の時期の領主が農民に臨む姿勢をよく示していると例えば大洲新田の年貢割付状をみると、田方について、近世前半は平均二ハ・五パーセントと比較的低率の年貢率であったのが、享保期後半ごろから二Oパーセント、さらに宝暦元年(一七五一)以降は三Oパ1セントを越えるというように、徐々にではあるが増加してきている(植田敏雄「大洲の区有文書」『ふるさと潮来』第五輯)。なお一般的に新田の年貢けられる傾向がある。については、当初年貢率が低くされるが、享保期以降は本田並みに近づしかし、享保期から寛政期にかけての八0年間に風水害一九回、冷害四回、皐害四回が記録されたという(『茨城県史近世編』)。なかでも天明、天保の二回の大凶作は、数年間にわたり被害をもたらし、農民に与えた影響は深刻であった。天明の凶作は、天明三年(一七八三)に起きている。この年は夏でも、「綿入れ」を着なければならないという記録的な冷夏に加え、七月に浅間山が大噴火し、関東地方一帯にかなりの降灰をもた324らしたことが原因となって、稲はもとより畑作物にも甚大な被害をもたらした。天明六年には大洪水があり、利根川流域の村(旗本領)でも半数近い餓死者がでた村があるが、水戸藩では籾蔵を聞いて飯料を支給したのでそれほどの餓死者はなかったという(『水戸市史中巻口』)。また麻生藩では、寛政元年(一七八九)目安箱を制度化している。目安箱といえば、八代将軍吉宗が享保の改革の一環として実施したことが知られるが、麻生藩のはこれにならったものである。当初の内容は次のように定められた。一、上々御為になるへき事一、諸役人を初私曲非分等有之哉之事一、請願訴状等有之節、詮議不相届捨置におゐてハ、追訴いたすへき儀其役筋へ相断候上申出へき事右之類ハ取上可有之、訴状等の儀役所へ訴出さる前、或ハ済方いまた済さる内申出まじき事其外私の意恨等にて申出候事ハ取上有之間敷事さらに虚偽のことを申し立てたり、村名と訴訟人の名がないものは、取り上げないとある。箱は施錠して目付役の門前に置かれ、毎月末に開けて、訴状は目付役が家老宅に持参する。家老は目付役の立ち会いのもと開封し、藩主に報告するという順序になっていた。幕府の場合と異なり、農民が対象となったこともあってか、訴状の数は余り多くはなく、かつ無記名で村役人の不正を訴えるものが多かったといわれている。従って目安箱の制度が、政治上の施策に生かされたということはなかったが、農民の不満のはけ口と、村役人などの不正の抑制の意義はあったと考えられる(植田敏雄「麻生藩の目安箱」『麻生の文化』