ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
十一号)。天保四年(一八三三)から断続的に続く凶作も大きな被害をもたらしている。天保四年はやはり冷夏に暴風雨が加わったもので、とくにこの時の暴風雨は、「近年稀成大嵐」(「大洲村御用留」大洲区有文書)と言うもので、水戸藩では家が破損した者に対し、無利息で資金の貸し出しを行ってい潮来地方の村むらと農民生活;よ\LI(f ?J11?? u'C\ J\ .~申立γtTE i与もす\第2章'fる。次いで天保七年も、冷夏と多雨が東日本一帯を襲った。)の時は霞ヶ浦の湖水があふれ、沿岸の村むらは大損害を被った。麻生藩では四年の時と同様に、金一両から一分までの御救金の支給、領外への穀類の移出禁止、他領からの米の買い入れなどを行うほか、暮には囲米の放出、翌あらめ春には江戸から「荒布(昆布の一種)」三五O俵を取り寄せ、領内に食糧として配布するなどの対策を講じている(『茨城県史近世編』)。でつした中で、水戸藩や麻生藩の年貢収納高は、人口減少と対策}れは「天明大飢鍾」を境に大幅に減少している。麻生藩の懐胎出生届(1大洲村御用留J)前述のような凶作の頻発がもたらした急激な人口減少による荒地の増加の結果と見ることができよう。ただし水戸藩では当地域が含まれる南郡は人口減少が比較的少ない割に荒地が多いということが指摘されている。}の理由としては日雇いや農間渡世などのために、「上田」でも耕作しない傾向が強くなったからといわれている(『水戸市史中巻口』)。これらに対する対策について見ていくことにしよう。人口減少の原因は、第一には次男、三男をはじめとする若年層の村外流出が、次に出生率の低下があげられる。まず第一の、村外流出者に対する対策は「人返し」である。「寛政の改革」時の幕府の政策が知られ第IV-12図ているが、すでに水戸藩では、正徳二年(一七一二)にこれを行っている。その後も安永二年(一七七三)などにもおこなわれたが、十分な成果をあ中巻口』)。いっぽう麻生藩でも寛げることにはならなかった(『水戸市史政元年(一七八九)に通達が出されているが、おおよそ次のようなものであった。一、農民の願い出によって荒れ地を開発させても、自分の扶食分しか耕作しない者があるので注意すべきである。325