ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
は気をつけなければならない。三、困窮人の出産時の薬代や謝礼はすべて藩が負担する。さらに新たに医師を任命したので依頼するように。どの程度の者を「困窮人」としたのかは村役人の裁量であったが、いたい六石程度以下の者であったという。またある農民が、第三子出生に際して差し出した文化四年(一八O七)の願書に、)の時六歳の第二子誕生に際しでも、「養育御救米」を支給されていた旨の記載があるので、覧政年間には第二子から支給対象としていたようである(植田敏雄前掲論文)。さらに産婦の産前産後についての、食物の善悪について記した「覚」を、全戸に配布するということまで行っている。参考までにあげておこ、,qノ。覚大麦粟きび黒豆大根牛芳あざみいちJせり鯉し、治主,鳥右之分懐胎之もの食し候て宜品なし梅ももあんずくわへしょ当ノがすももくす潮来地方の村むらと農民生活れんこんまねぎめん類大豆餅しそいたどりら鮭志ぢみあけびなまずえび鴨九号するめAノヨ』主己からし無鱗魚右之分懐胎之もの食すべからずなすびきふりわらびそば}んにゃくし、もなしけきにんにくなん志やう}+志や〉つあづき熟瓜酒酢惣て第2章生冷物右之分産後食し候て不宜品右之書付ハ家別ニ壱枚宛相渡し候様可被致候(貝塚家文書「寛政御箇条書写」)これらがどのような根拠があるのかは不明であるが、藩の人口増加へだの執念を感じ台せるとともに、当時の食生活の一端がうかがえて興味深またL、。水戸藩では、死産の場合は必ず医師の証明書(死因がわかるように)を添えて、世帯主が所属する組合と連名で、村役人に届け出なければならなかった。}の場合産婆が取り上げた場合も、必ず医師の検分が必要だったようである。なお死産の理由は、「逆子」による難産の結果が多い。以上のような出生率の増加策は、長期的な視野に立ったものといえよぅ。しかし第二子以下は成長しても、経済的な問題などで分家したくともできない状況であった。離村者の増加の大きな原因はここにあるとい踊生えト」でつ。この観点から、麻生藩では次に述ぺるような分家の取り立て策が行リわれた。文政二年(一八一九)地方手代からの上申書には、人口減少で荒れ地がな増加している現状に対し、「次男次女分家為仕追々取立荒地開発鍬下御用捨奉願候」と意見を述べていたが、加えて翌年には郡奉行から具体的な建議がなされ、」れが採用された。要点は次のとおりである(植田敏雄前掲論文)。て分家する際の家作材料は藩有林の松木を無償で与える。二、資金は、漁船などの船や酒造などからの運上金をあて、分家一軒につき金三両ずつを無利息三か年賦で貸し付ける。三、さらに扶持米として籾一三俵を無利息五か年賦で貸し付ける。四、荒地開発については七年間年貢を免除する。327