ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
その他の品目についても、総じて一割強程度の値下げになっている。なお「職人作料」というものもあり、職人として大工一人、桶大工二人の名がみえる。また酒は二人、その他の雑貨販売としては四人の名前があり、村の農間渡世の実態の一端を知ることができる。この時代は商品の種類が増加しただけではない。婚礼や葬式などにも費用がかさむようになっていた。「寄集取持為ものは向三軒両隣組合親類ニ限り可申右取持之もの之外食事致べからず」というように、村内の交際まで規制する必要性があったのである。しかし農間渡世までは禁ずるに至らなかった。かえって農民の没落を促すような結果になるからである。また治安の悪化という問題もあった。田畑の荒廃により、困窮のはてに潰百姓になったり、行方不明として「帳外」や「欠落」とされた農民が、「無宿」というような遊民と化し、農村の治安を脅かすような状態であった。}れは関東地方の支配体制が天領や旗本領、麻生藩のような小藩の領地が錯綜している状態であることが、一つの原因であった。の対策として幕府は文化二年(一八O五)、関東取締出役を創設し、水戸潮来地方の村むらと農民生活藩領のような大藩の領地を除き、支配地域を越えた取り締まり体制を強EVU/F'』OJ111一v'さらに文政十年(一八二七)、近隣の村むらを数か村組み合わせて小組合を、さらにこの小組合を一O組前後まとめた大組合を治安取締の単位とする、「改革組合村」を編成した。潮来地域では麻生藩領の村その中心の村は麻生村であった。この組合を単位としむらがまとまり、て警備体制の強化はもとより、前述のような生活規制ゃ、商人・職人の調査や物価・賃金の統制をはかったのである。第2章近世農村にはすでにみた土地関係、年貢関係の文書「人別帳」にみる農民生活とともに、人口関係ともいうべき史料も残されていることが多い。「宗門人別改帳」(以後「人別帳」と略す)などといわれるものや、これに付随するものとして「人別送り状」などである。}の「人別帳」は、二つの起源をもっ史料である。一つは戦国時代末期に、領内の人馬を徴発したりするために作られたとされる「家数人馬書上帳」、もう一つは江戸幕府がキリスト教弾圧のために、全国的に行わせた「宗門改」の結果を記録したものである。前者については水戸藩で寛永十五年(一六三八)に行われたという記録があり、また後者もその翌年に行われたということが確認されている(『水戸市史中巻付』)。しかし一般的には寛文四年(一六六四)に、幕府が「宗門改めの役人をおいて行うように」という指示を出し、寛文十一年には帳簿の毎年の作成を命じたため、この時期以降に作られるようになった。ただし内容的には、v)「家数人馬書上帳」の記載内容が基準になっているとみられる(単なる「宗門改め」ならば、たとえば年齢や持高までは必要ないはずである)。そして享保の改革の一環として八代将軍吉宗が、享保六年(一七二一)から六年ごとに全国の人口調査を行うことを命ずるが、}のころになると実質的にキリスト教徒摘発のためという性格は薄れ、「家数人馬書上帳」の性格が強くなっていたといえよう。つまり現代におけるコ戸籍簿」、あるいは「住民基本台帳」に近い性格をもつものとも考えることができるが、さらに「印鑑登録台帳」の役割をも兼ねている。たとえば宝暦五年(一七五五)水原村の「五人組連印帳」(浜野元市家文書)の中には、次のような条文がある。一、五人組宗門帳に押した以外に、別の「印判」をこしらえではな329