ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

況を示したものが第W1日表である。文政期には七1八人を越す大家族中」。・hY作Aa〆、、ifJ四i五人の家族が中心であることがわかる。しかしいっぽうでは一1二人という家族の割合も高い。この構成について文政二年を見てみると、四i五人家族の場合は夫婦を中心として、そこに子供と親が加わるという形が最も多い。、司つまう11一1二人家族の場合は、その半数が六O歳以上の高齢者の単身または夫婦であり、持高も五石に満たない零細なものが多い。なかには一人娘が村外に奉公に出ており、家には七O歳の母が九七歳の祖母と二人暮らしという例もある。このような層はいずれかの農民が「請人」として名を連ねており、たとえば八一議の老婆の一人暮らしなどは、持高に関する負担を五人組で面倒を見ている。ところが天保期になると六1七人の家族が明らかに多くなり、その反面一i二人家族の割合は少なくなるのである。これは県内他地域でも見られるが、天保の大飢僅の影響が、一i二人の層に深刻であった反面、それを乗り越えた農民については前述のように子供の数の増加などから見て、家族規模の拡大、すなわち生活の向上を感じることができよう。潮来地方の村むらと農民生活これについては領主の政策面の配慮も忘れてはならない。前述のように、近世後期は基本的には直系家族を中心した農業経営であるが、現代と異なる点の一つは、奉公人が広汎に存在することである。では、その実態について大賀村について見てみたい。大賀村の四冊の「人別帳」には、家族の中に計一八人(男一五人、女三人)の奉公人が記載されている。時期的には文政五年が一一人と際立って多いが、その理由は分からない。平均年齢は、男二三・六歳、女三三・O歳であるが、男第2章性の場合過半数は、一四1一九歳の少年で占められている。その出身地については記載がないので不明であるが、}の点は村外に奉公に出ている者から検討してみたい。村外に出ている者については、「外ことして各家族の末尾に記載されている。奉公に出る理由は、まず生活難があげられよう。たとえば文政五年について見ると、本来四人家族ではあるが、戸主一人を残して母、女房、伴がそれぞれ奉公に出ているという家がある。}の家の持高が石余りしかないためであろう。しかしこのような例はむしろ稀で、家中から奉公に一人出ているのに、埋め合わせるかのように奉公人がいる場合もあり、単純に労働力の過不足や賃労働だけが原因とは思えない。むしろとくに一O代の奉公人は、行儀見習い的な意味もあったのではないかと思われてくる。次に奉公先を見ると、まず各年ともに「麻生御屋敷」「江戸屋敷奉公」が二、三人程度いる。前者は麻生の陣屋、後者は江戸の藩邸であろう。これは年貢の納入が滞った者が、藩の屋敷での労役でその代わりを果たすという意味もあった。江戸時代の結婚は、現代と異なり個人同士の結びつきと結婚と離婚いうよりは、家同士の結びつきの面が強かったことはいうまでもない。どこから、どのような手続きを経では、て嫁や婿は来るのであろうか。何歳ぐらいで結婚したのであろうか。可能な限り探ってみよう。まず縁談がまとまると、相手の村の名主(庄屋)に許可を求めなければならない。書付を以奉願上候て其御村方百姓半左衛門旧縁之者一一御座候一一付同人娘なか私蝿-一(談)貰請度及内談候何卒縁段相整候様其御役所様-一御願被下度此段親類一同奉願上候333己上