ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
、Aつ棒』号、A、治7・ヵここにも例外ではない。再婚も多いが、とくに「婿」については、離縁した直後(当該年、翌年)に別の婿を迎えた例が二例あり、ちらも村内出身者であったが、一人は実家に戻ってほどなくやはり村内へ婿入りしている。}のようなことを考え合わせると、今ほど「世間体」を気にするということはなかったように思われる。いずれにせよ結婚・離婚は当事者同士よりも、親や親類の意向で決定されることは確かであったろう。女性よりも、前述のように特に次三男に生まれた男性にとっては厳しいものであった。彼らが村を出てゆく背景の一つでもあったろう。「人別帳」は単なる戸籍簿や住民台帳ではない。「帳外」の人びと大賀村の例のように、現実に村内に居住していなくとも記載されることがある。ご}では村という、一つの共同体の構成員として「身分」が示されている。したがって共同体から脱落する場合ゃ、時に共同体にとって都合の悪い場合、「人別帳」から外されることになる。『地方凡例録』には、日目吊から行いが悪く、親類や村役人が意見しても悪事をやめず、村外からた潮来地方の村むらと農民生活びたび苦言が申されるようなときに、人別帳にそのままにしておいては「如何様の災難出来すべきも計り難きゅへに、親類村役人申談し:::帳外致し村方を追い出す」とあり、もう一つは「欠落」の場合、六か月の間「相尋ねても行方知れず」の時に、「帳外」を願い出ることができるとある。大洲村の「人別帳」には、そうした「帳外」、あるいは「追放人」となった人びとの記録が末尾にとどめられている。}こではその記録をみ第2章ながら、当時の農村の状況を考えてみることにしよう。大洲村の場合、寛政六年(一七九四)から文化七年(一八一O)までの一六年の問、「帳外」とされた者は二O人にのぼる。「追放」された二人とど合わせて二二人が、村共同体から脱落したことになる。三三O人前後の村の約七パーセントである。「帳外」は、たとえば次のように記される。一、儀八とし五拾壱歳是ハ享和二成年六月御改より帳外ニ相なり候分ふつつかものしかし多くは「是ハ不束者-一御座候処」とか、「不坪成者」「身上放時致し」などという文言が添えられている場合が多い。平素から生活行動ふとゆくえに問題があると見なされていたものがある時「風ト罷出、行衛相知レ不申」というのである。それは個人が多いが一家全員の場合もある。年齢は意外に高齢者が多く、二O人中一五人が四O歳以上である。前述の『地方凡例録』にあるとおりであるが、「追放」の文字はない。あくまでも本人が姿を消したということで、「欠落」と区別はっきにくい。それでは彼らは、なぜ村から消えてしまったのであろうか。「船乗渡世」をしているうちに行方知らずになってしまった、という場合と、おそらく欠落したと思われる、「水呑」「無家」という零細農民の場合とが、合わせて全体の三分の一になるが、そのほか次のような例もある。「あき」という一七歳の娘は、上戸村の家大工申介親分の弟子、久米吉を鴛養子に迎えたが、四カ月後の夜失綜してしまった。方ぼう探したが行方が分からない。若い女とはいえ、ふだんから行いがよろしくなかったので、行き先で「変事」があると困るので、「帳外」を願い出た。「勘太」という四七歳の男は、二二年前に掘を患い農業もできないので、療治にいくと言い残して出掛けたまま行方不明になった。家族が数年あちこち尋ね歩いたが行方が分からないので、行き先で「変事」があると因るので、「帳外」を願い出た。335