ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世いずれにせよ彼らは「無宿人」となってしまったのである。行方知れずになってから長い者は二O年以上、短くとも一年は「人別帳」に記載近され続けるが、結局は家族、親類からの願いによって外されるのである。N「変事」があれば消息は分かるが、村や家族にとって何らかの責任は免'upk、。オ右Lこの点に、複雑な家族の心中を察することができよう。b-手h-J、JJ千''L願い出ても、すんなり許可されるとは限らない。領主から見れば、実際はともかく夫役徴発のための基礎帳簿である「人別帳」上での、人口の減少は避けたいところであるからである。従ってもし欠落した者の居場所が判明し、なおかつ本人に帰村の意志がある場合、とくに処罰を加えるようなことはなかったようである。次にあげる例はその一つである。麻生領大賀村の伝三郎という五九歳の男は、文政十一年(一八二八)の「人別帳」によると、持高五石余りで女房に子供三人、さらに馬一頭を所持し、村では中の下程度の経済力をもっ農民である。そんな彼が何を思ったか天保九年(一八三八)、家族を捨てて単身欠落してしまうのである。ところがほどなく水戸藩領白羽村(常陸太田市白羽町)の大照院という寺に、縁者を頼っていたことが明らかになった。しかし本人が現在病気で、生活苦に耐え兼ねて「一日一之心得違」によって家出をしてしまったが、「前非後悔」しているので、ぜひ帰村させてほしいということで、婿養子が親類と村役人連名で領主宛に願書を提出した(箕輪家文書「天保十三年大賀村役用録」)。藩の回答は明らかではないが、翌天保十四年の「人別帳」を見ると、婿夫婦と三人の孫、女房と暮らしている様子が確かめられるので、願いはかなえられたようである。またこの事例から、やはり「困窮」ということが欠落の大きな理由であること、意外に遠方まで行ってしまう場合があることが分かる。336また「御追放人」として、二人があげられている。追放の理由は明らかではないが、天明八年に水呑八兵衛が「焼印御追放」、文化八年に万次という若者が「御追放」になっている。これは「帳外」と異なり、犯罪による刑罰が確定した者といえよう。