ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節潮来地方の新田開発現在の町域総面積のおよそ半分にあたる田畑は、新近世の新国開発田として近世に開発されたものである。一般的に近世は「大開発時代」といわれている。事実関ヶ原の戦直前の慶長三年(一五九八)の全国総石高が、約一八五一万石であったのが、明治六年(一八七三)には約三二O一万石と約一・七倍強の増加である。}れを耕地の面積でみると約二倍になるという。が人口増加と経済発展の基盤になった。開発の趨勢をみてみると、三つのさかんな時期があるという。一つは明麿から寛文期(一六五五1七二)、次に元禄から延享(一六八八1一七四七)頃まで、そして寛政から安政(一七八九i一八五九)にいたる時期である。県内については、最大の領地をしめる水戸藩の場合、総開発高は約六潮来地方の村むらと農民生活万石におよんだが、そのうち七Oパーセントは享保十四年(一七二九)までの開発になる。つまり水戸藩の場合、ほとんどの新田は近世中期までに開発がなされていたということになる。利根川と震ヶ浦の合流点にある潮来地域は、土砂の堆積によって砂州や浅瀬が早くから形成されており、現在佐原市などに属する十六島といわれる地域ともども、近世初期に開発が始まっている。町域で開発されたのは大洲、徳島、二重谷の三新田である。第2章大規模な新田の開発には、多額の資金など計画性が必要である。従って、誰が開発を先導したかによって幾つかの類型に分けられ、大別すると以下のようになる。土豪開発新田中世末の土豪が帰農する過程で、権威と資力を利用して開発を推進したもの。潮来地域では大洲新田がこれにあたるが、十六島にも、旧江戸崎城主土岐氏の遺臣が草分けとなったものがある(『佐原市史』)。村請新田村役人以下村民の総意で村として開発を推進したもの。一般的にこの例は多く、潮来地域でも二重谷新田、徳島新田はこの型になるであろう。ただし後述するように、徳島新田の場合は所有権争いのためもあろうが、かなり水戸藩が肩入れをしてれ、・30盲hwEη町人請負新田資力のある町人が資金を投資して、開発後は小作料を得るというもの。四藩営新田藩主導による開発。五代官見立新田幕府代官が適地を見立てて開発を推進したもの。前述の十六島についても端緒は、小見川近辺を支配領域とした幕府代官、吉田佐太郎の見立てによるものでもある(『佐原市史』)。いくつかの契機が複合している場合も多いが、開発が進んだ背景には」の点はもともと谷津田が多近世前期の小農民の自立化の進展がある。く、新たな耕地の展開が難しかった潮来地域にとっては、砂州の開発は長年の課題であったと思われる。次に三つの新田について、それぞれの開発の経過や特色を明らかにしていきたい。開発の経過大洲新田の開発は、三新田の中では最も古大洲新田ぃ。前述の開発の類型では、土豪開発新田に分類される。すなわち戦国末期に、下総国香取郡村田(現千葉県香取37