ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近N寛永18年「大須(洲)新田検地帳」第IV-18図開発を志し、郡大栄町大字村田)にあった城の主、村田有通(桓武平氏千葉氏末流)がその子村田彦五郎が天正十八年(一五九O)、豊臣秀吉の小田原攻めにあって敗北したのを契機として、従者二人を連れて大洲に移住して開発を始めたのが起源とされる。その後文禄・慶長年間(一五九一一i一六一四)には近郷からの入百姓も加えて家数が七軒となったとこ系図」)。ろから、「七軒島」と称したこともあったようである(村田影彦「村田家大その後の開発は順調に進み、元和六年(一六二O)には、「大洲野銭」として金二分、寛永三年(一六二六)には金一両を水戸藩に納めている。しかしまだ独立した村としては扱われず、たとえば寛永十二年(一六三五)の「水戸領郷高帳先高」(『茨城県史料近世政治編I』)には、潮来村の新田(二三O石余)に含まれて記載されているとみられる。寛永十八年(一六四一)の水戸藩全領検地では「田畑屋敷合弐拾参町三畝拾七歩、分米合弐百壱石壱斗五升六合」(大洲区有文書「板久郷大洲新国御検地水帳」)とあり、名請人六O人(内屋敷有者二九人)が記載されている。338元禄十五年(一七O二)に幕府が全国の村の石高を調査した「元禄郷帳」も、閉じ石高を示しているが、}の調査はおそらく寛永検地の結果を、「拝領高」として幕府に提出したものであろう。従って寛永から元禄までに、耕地の増加が全くなかったわけではないと思われる。「割付状」で確認してみると、同年の村高は二O三石弱となっており、わずかではあるが寛永年間よりは増加している。先にあげたように、水戸藩全体ではそろそろ開発は終息に向かう時期であるが、大洲新田の場合は逆に開発が本格化してゆく。ざっとたどってみても、宝永五年(一七O八)二三二石、天明四年(一七八四)には三六七石、文化四年(一八O七)四一四石(各年「大洲新田年貢割付状」)と増加の一途である。水戸藩の天保改革に伴う検地は、天保十四年(一八四三)に、従来の六尺竿を六尺五寸竿に改めておこなわれた。}のため水戸藩領全体では四一万八OOO石余から、一三万七OOO石余と約二四パーセントも減少している(『水戸市史中巻臼』)が、大洲新田では検地の結果六七三石余と一挙に六割近い増加を示している。」れは新開未検地の耕地の組入れや従来は水害等を考慮した保護策として、ゆるやかな検地であったのが、統一基準により打ち出されたものと考えられている(植田敏雄「水戸藩領潮来地方の新田開発」『茨城県歴史館報』一O号)。そして明治元年(一八六八)には六七六石(「各村旧高簿」『茨城県史料維新編』)となっている。新田は地形上水害が頻発する。大洲新田の場合も例外ではない。詳細は別項に譲るが、長期にわたって年貢率が、享保年間までは一割台の水準なのは新田の開発奨励の意味合いが強いが}れ以降も最高で三割強でしかなかったことは、水害常習地域に対する藩の保護策の一つと考え