ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世第IV-18表文化7年大洲村持高階層持高|戸数近W2戸7.1<.文化7年「大洲村人別帳J(J.,:洲区有文)によるη49un目白vnku。,“,A58330石以上25-3020-2515-2010-155-101- 5l石未満言十呑AD本」とあり、文化四年(一八O七)に水戸藩郡奉行小宮山楓軒が編纂した「水府志料」(『茨城県史料近世地誌編』)には、「蜜柑、柑子類を産す。潮来領十六ヶ村皆産すといへども、此地のものをよしとす。此辺すべて湖を帯び、暖気成る故蘇鉄、肉桂、さぽてんなどの類も有」とある。なお肉桂とは、俗にニッキともいう東南アジア原産の常緑樹で、樹皮や根を乾燥して漢方薬の原料(桂皮)や、香料(シナモン)として利用する。また文政年間に出版された「常陸紀行」(『茨城県史料近世地誌編』)にも、庄屋の村田家より藩に蜜柑が献上されていたという記述があり、「大洲村御用留」(大洲区有文書)の文政八年(一八二五)の記事にも、蜜カ〉ん柑五龍が献上されたという記録があり、「白あわミかん同わせ庭み本みかん」などの品種が記載されている。ともあれ少なくとも化政時代には「大洲新田の蜜柑」はとくに知られていたようである。階層構成と農間余業次に村の階層構成を見てみよう。文化七年(一八一O )の「人別帳」(大洲区有文書)によると、総戸数は六二戸であるが、内三戸は水呑で残り五九戸が本百姓ということにー日表である。なる。虫損で判読不明の一戸を除いた六二戸についてまとめたのが第W一見して持高五石未満の層がかなり多いことがわかる。本百姓の七六パーセントの比率になる。その反面三O石をこえる大高持が二戸(五九石余と六二石余)あるのが注意される。平均持高は五・三石庄屋村田家は、とかなり低い。ちなみに麻生藩領大賀村の平均は九・二石である。なお一六石弱で四番目になるが、家格と持高が一致していないのも興味深い。340このような零細経営を補うのが、農間余業である。同年の「人別帳」によると、全戸数の三分の一近い二O戸が何らかの農間余業を営んでいる。この割合はたとえば大賀村の文政二年と比較すると、大賀村の場合は全四三戸の内四戸のみ(九パーセント強)が、農間余業を営んでいるにすぎない。特に大洲村の場合第一の高持である次衛門が、板材木売買をも営んでいるのを例外として、ほかは四石以下の零細農である。二重谷村は、常陸と下総両国の境界であった屋留川にで二重谷新田きた砂州を開発した村であり、水戸藩領(潮来村)と幕府領(新島)が境を接していた地域である。砂州は川の南部にできたため、行政上は下総国香取郡に編入されていたが、対岸の潮来の村民が領境と国境も越えて、草刈場として利用しながら、徐々に耕地を開発していったのが、開発の起こりである。しかしこのような状況に対し、幕府領の農民が黙っておらず、その訴えにより正保元年(一六四四)四月に、幕府は潮来村農民に対し返地を命じた。これに対して、潮来側でも代官神尾若狭守が鹿島郡に出張したおりに、村役人の代表が大舟津の旅宿まで出向き開発許可を嘆願した。理由としては、幕府領は人口が少ないため未開発の土地が多いが、潮来村は人口も多く、開墾の目的を達することが可能であるというものであっこの嘆願は認められ、潮来村が開発と耕作の権利をえた。しかし開発地はあくまでも幕府領であるため、年貢諸役は幕府へ納入し、潮来村た。民が二重谷村に移住することは認めないという変則的な開発形態である。開発が認められた正保三年(一六四五)から延宝元年(一六七三)までは、「海運上」の名目で年五O O文を納めていたが、延宝二年以降は見取り反別一一町七畝余、年貢高一一石と定められた。次いで元禄四年(一六