ブックタイトル潮来町史

ページ
353/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている353ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

九一)に、代官守屋介次郎により初めて検地が行われ、反別二二町四反余、年貢高一八石二斗に加え、「海運上」米七俵と改められた。元禄十五年(一七O二)の「元禄郷帳」には、「二重谷新田」とあるのみで石高の記載はないが、同様に幕府新島領の十六島の新田も、結佐、六角(ともに稲敷郡東村)を除いて無高なので、まだ生産が安定していないと見なされたものであろうか。延享元年(一七四四)の検地の結果、反別六二町八反二畝余、石高四九二石余、年貢高一七八石と銭一二買余となった。その後も開発は進展し「天保郷帳」記載の天保五年(一八三四)の石高は五四二石になり、幕末に至る。湖沼は多くの場合、国や村などの境界となり、また古くからの入会の場所として、その権益が多くの村にまたがることが少なくない。うな場所に形成された砂州の開発は、しばしば争いの種になる。前述の潮来地方の村むらと農民生活eA3 ?っ5今君子とi } ~a、オtHi)r i,..~f竜ζ凶d第2章}のよように二重谷は、開発の当初から幕府新島領民と水戸藩潮来村領民の間で対立したが、幕府の裁決によりひとまずおさまった。しかしその後も土砂の堆積はやまず、新しい砂州が形成される。}こで問題は再燃する。対岸の加藤洲村と扇島村(千葉県佐原市)との訴訟は、元禄十二年(一六九九)から正徳四年(一七一四)と、足かけ一六年の長期にわたった。加藤洲村と二重谷村との聞には、元禄十二年四月「川湾」を村の境界にするという約定が成立していた。)のころ新たに形成された洲が「川湾」の北側にあったが、}この開発権は当然地続きの二重谷村にあるはずであった。ところが加藤洲村が隣村の扇島村とともに、ここの開発を二重谷村も加えた三か村で行うことを提案してきたのである。二重谷村側は、これを拒否して一村単独での開発を主張して対立し、結局幕府評定所に訴訟が持ち込まれることになった。正徳四年最終的に下った幕府の判断で、新洲は紛れも無く二重谷の地続きであるがこの洲がゆくゆく利根川の流れを妨げることのないよう二重谷村の開発記録(明治2年j二重谷より幅六O間深さ七尺の新川を掘り、この北東側(二重谷側)は二重谷村に開発権があり、西南側(加藤洲側)は、に、与助川と利根川の間に、両方の村とも立ち入ることができないとされた(関戸家文書「二重谷出入一巻十一ヶ条之目録」)。なおこの時水戸藩の役所に、協力要請に出向く相談がなされた記録があり}の勝訴の背景には水戸藩の力添えもあったと思われる(前掲植田論文)。さてこの新川は、早速裁断が下った翌年に着工され、一年余りの工事第IV-21図期間を経て正徳六年(一七二ハ)五月に完成したが、二重谷村は長年の訴訟による多額の出費や、悪天候などもあり予定より大幅に工事が延引したこの点を加藤洲村は幕府に訴え、幕府の厳しい督促に村は大いに苦しんだという。それゆえにこの新川を村民は「涙川」と名付けた(後に341