ブックタイトル潮来町史

ページ
355/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている355ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

七年貢を皆納しない者も同様である。この提は明治維新後も厳守されたが、地租改正に際し土地所有者個人に「地券」を交付するという原則に触れたため、明治十年(一八七七)に「二重谷条例」と改正され、実質的には共有制を維持するものの、形式的には個人所有を認めることになった。具体的には「地券」を村役人が一括して管理して、従来通り土地を配分し租税負担も公平に行うという形である。しかし社会情勢の変化から、明治二十二年(一八八九)には、「二重谷より整備、細分化された規定となったが、耕作権者で組規定」と改め、ある「田取人」の増加に伴い、一人当たりの耕地面積の減少、売買譲渡禁止の空文化、諸税滞納者の増加などの問題が生じ、規定の維持が困難になった。そのためついに明治三十四年(一九O一)、「分割に関する規定」を定め、二重谷の耕地は分割され、個人所有となった(前掲植田論文)。大洲新田の東南部に浪逆浦の湖中に形成された砂州は、徳島新田周辺の湖ともども行方、鹿島両郡の村むらの漁場、株場、潮来地方の村むらと農民生活藻草採場として、入会地として使われていたため、開発をめぐる争いは深刻なものがあった。とくに水戸藩領延方村と、対岸の旗本新庄隠岐守知行所鹿島郡下幡木村(神栖町)の対立は、四O年と極めて長期化した。まずこのいきさつを「徳島新田創立開基録」(篠塚家文書)によって追ってみよう。もともとこの砂州をめぐっては、両村の間で互いに置や蒲を植えては引き抜く、というような争いを繰り返しており、寛永十一年(一六三四)第2章に水戸藩が砂州の所有を主張したのに始まり、寛文十一年(一六七一)には水戸藩の郡奉行平賀勘衛門が、このような状況をみて藩当局と相談し、藩の御鷹場として指定し、鳥御番所という名目で見張りを立てることにした。翌寛文十二年には、番屋をおいて下幡木村の妨害を見張るためとして、昼五O人、夜一OO人ずつ監視に立ったという。}のような藩権力を背景とした延方村の行為に対し、ついに旗本領下幡木村側は、同年早々幕府評定所に訴えることになる。延方・潮来村の反論はこの砂州は大洲新田の「地続き」であること、鳥番所は以前から設置されていたものであるということ、以前から蒲を植えていたのは下幡木村ではなく、潮来、延方両村であること、また砂州の周辺が下幡木村の藻草採集場であったこととか、網代場として諸役銭を納めていたという場所ではなく、年貢諸役銭は潮来、延方両村が水戸藩に納めていたものである、というものであった。また境界については、鰐川が「郡境」であると記している。評定所での吟味は七月二十五日に始まり、二十七日には早くも裁決と』l品つh】OJJサ''その結果は延方村の全面的な勝訴となった。裁決の判断とされたのは、「公儀絵図面」に記された両村の境界が、確かに鰐川であった」とによる。この「公儀絵図面」とは、正保元年(一六四四)に幕府が全国の藩に命じて提出させた「国絵図」を指している。寛永十一年両村の初めての争いの時、水戸藩がこの砂州の延方村所有を強く主張した経緯があり、当然国絵図にもそのように記入しておいたのである。また慶安二年(一六四九)には、「検地帳」を作成して砂州の石高を八O石とするなど、この訴訟の背景には新田の領有を確実にするための、従来からの水戸藩の着実な布石が功を奏したといえよう。砂州が勝訴後に藩命により「福島」(「常陸紅葉郡鑑」によると、延宝年間に「徳島」と改称)と名づけられたことからも、藩の姿勢がうかがえよう。延方村は七月二十七日の勝訴の日を記念して、以後毎年この日に村の343